子供の◯◯◯を引き出すのが教育

子供の可能性を引き出す

education、それは「引き出す」を意味するラテン語を語源としている。

つまり、教育とは外からの働きかけにより、その子の可能性を引き出すお手伝いをすることである。

 

ところが、現在の教育は国家の方針に沿った人間を作ることが目的になってしまっている。

小学生のうちから英語を教科化する。

プログラミングの授業が始まる。

道徳が教科に位置付けられる。

今回の学習指導要領改定では、これらの話題を耳にする。

 

公教育とは、日本に在住するすべての子供たちが等しく受けることのできる教育である。

ポイントはすべての子供たちである。

 

すべての学問の基礎を義務教育で学ぶ。

義務教育で学んだことをベースにして、自分の興味関心に合わせて高等教育を受ける。

公教育である「学校」は、基礎基本を身につける場である。

 

果たして、プログラミングや英語が、すべての子供たちに必要であろうか。

「世界基準で考えると」とか「人工知能が」とか言うのだけれど。

子供の心配をする前に、大人の心配をした方がいい。

先に淘汰されるのは大人の方だ。

 

プログラミングや語学をいうものは、基礎基本のうえに積み上げられるものではないだろうか。

 

プログラミングに興味をもった子はプログラミングを学べば良い。

英語に興味をもった子供は、英語を学べば良い。

コンテンツとして与えることは重要である。

だが、深く学ぶことを強制する必要はない。

 

いろんなコンテンツに触れ、自分の興味関心に合わせて、さらに学んでいく。

何を学ぶかを子供たちが選ぶというのは、主体的に学ぶといううえでも、大切にしたいことだ。

 

「オリンピックもあることだし、観光立国を目指すから英語教育を」などと考えるのは安直である。

ところが、教育が国家の方針に従って意図した通りの人間を育てようとしたとき、教育活動はその道を誤ることになる。

そのことは、歴史が証明している。

 

かつての教育現場では、戦争に行って死ぬことを美徳として教えていた時代があった。

先生たちは、どのような気持ちで教え子を戦場に送り届けていたのだろうか。

今の僕らにはわからない。

だが、教え子が死ぬことに納得していた教師などいるはずがないと信じている。

 

 

さて、教育とは「引き出すこと」である。

ところが、昨今の教育はtrainingでありInstructionとなっている。

何かを身につけさせることにばかりに目が向いてしまっている。

身につけるものは最低限で良いのだ。

最低限とは「読み・書き・そろばん(計算)」である。

これらが大切であることは、もう大昔から言われている。

 

ところが、基礎基本を徹底せぬままに学習活動は進行していくことになる。

カリキュラムに沿って次から次へと新しい内容が詰め込まれていく。

分厚い教科書には、「教えなければならないこと」があふれている。

教えきれないものは、宿題となる。

 

 

すると、基礎基本というベースができていない子供たちは、次から次へと脱落していくことになる。

学習とは積み上げである。

一度手にした負債は、次時の学習でも負債となる。

足し算がわからぬままに引き算を学び、ひらがなが書けぬままに漢字を学ぶことになる。

これでは、学ぶことそのものに苦痛を感じる子供がいても不思議ではない。

 

忘れてはいけないことがある。

学校は子供を「篩(ふるい)」にかける場所ではない。

学校は国家の意図通りの人間を生産する工場ではない。

義務教育では、基礎基本で良い。

そして、そのベースのうえでそれぞれの興味関心に合わせて学習を広げていくのが良い。

 

あれもこれもと欲張ると、結局何も手に入れられなくなってしまうのだ。

何度も書くが、教育とは「引き出すこと」である。

子供たちの可能性を引き出す場所が学校である。

学校が「子供たちの可能性」を奪ってはいないか。

そのことを危惧している。

 

最後に、学校を表すschoolの語源を書き記しておきたい。

schoolの語源は、ラテン語のscholaである。

このscholaは、古代ギリシア語のscholeからできた言葉だとされている。

 

scholeとは「暇」を意味している。

古代ギリシャでは、学問ができるのは生活に余裕のある貴族だけであった。

生活の余暇を利用して学んでいたのだ。

schoolの語源であるラテン語のscholaは「暇つぶしの場所」を意味している。

 

学校は暇つぶしの場所だったのだ。

 

ところが最近の学校は忙しすぎる。

あれもしなければならない。

これもしなければならない。

教師にも子供たちにも、疲弊してしまっている者は多くいる。

 

現在の学校教育は、すべての子供たちの成功をコミットできてはいない。

公教育が合わない子供は存在する。

それは悪いことではない。

学校には、公教育には、限界があるのだ。

 

そこで、公教育ではない選択も、少しずつ拡がりを見せている。

サドベリースクールなどオルタナテイブ教育を行う学校やフリースクール。

それから、ホームスクーリング。

学び方を選ぶ時代が始まっている。

 

だが、「学校に行かなければならない」という固定観念は根強い。

「学校に行かない」という選択を認めたとき、実は子供の可能性は拡がるのだ。

公教育が合う者もいる。

部活動に汗を流し、教室でひたむきに学ぶ者もいる。

そのような子供たちは、「公教育」を選べばいい。

 

一方で、公教育が合わない者もいる。

そのような子供たちは、「公教育」以外を選べばいい。

 

学び方を選ぶのは、子供である。

国家の戦略に従って、意図した通りの人間を育てようとしてはいけない。

親の意図した通りに子供は育たないように、国が意図した通りにだって育たないのだ。

 

教育とは、可能性を引き出すことである。

子供たちの内側には、無限の可能性が詰め込まれている。

そのような子供観に基づいたとき、教育の本質が見えてくるのである。

 

子育てに迷ったときに出逢いたい100の言葉

子供の可能性を引き出すのが教育です。