松ちゃんとイスラムと不倫問題を並べて考えた。
ダウンタウンの松本人志さんが活動休止するというニュースが飛び込んできた。
いわゆる文春砲で性加害の疑いが掛けられている。
お笑い芸人として、現状では笑いに変えづらい状況であり、裁判で徹底抗戦するということで活動休止するらしい。
報道の真偽は僕にはわからない。
きっと裁判で明らかになっていくのだろう。
そんなことよりも僕が思うのは、いつから日本は法治国家ではなくなったのだろう?ということだ。
人を裁くのは司法の場である。
個々人が憶測でジャッジメントを下す社会ではないはずだ。
ところが、SNSが発達したことにより、「疑い」の段階で、人は人によって裁かれるようになった。
週刊誌の取材というレベルの証拠によって、松本人志さんは「ダウンタウンの松ちゃん」という仕事を失ったのである。
事の審議がわからぬうちに、刑が執行されたと考えてよい。
これって、自分に置き換えてみたら、無茶苦茶怖いことだ。
学校の先生で言うと、生徒が「先生に触られました!」「先生に殴られました!」と言っただけで、よく調べもせず保護者や生徒が「あの先生、ダメだよね」と言い出して、懲戒免職になる感じだ。
真偽がわからぬうちに職を失うってことはそういうことだ。
これをさも「当たり前」のように捉えている社会は怖いと思う。
芸能人の不倫問題も、僕はそのひとつだと思っている。
女優の広末涼子と鳥羽シェフだっけ。
人気商売である女優業はともかく、シェフの仕事を失うって不思議でならない。
誰と付き合っていようが料理の味なんて変わらない。
居酒屋に行って料理している人がどんな恋愛してるかなんて興味なくないですか?
ちなみに、一応、法に触れていないわけ。(民法には触れるのかな?)
一般的には「不倫」はよくないものとして扱われる。
もう社会悪。
絶対的に忌み嫌われるもの、みたいな扱いを受ける。
そういったことに関わった芸能人は徹底的に干される。
だが、法的に罰せられることはない。
法では罰せられないが、社会的に抹殺されるというのはなかなか興味深い。
だって、シートベルトをしてなくても罰せられる国である。
無灯火の自転車でも罰せられる国である。
こんなに忌み嫌われるのに、法的に罰せられることはない。
とても不思議なことだ。
ちょっと別の角度から話をしたい。
イスラム圏の日本人学校に勤めていた先生とお話をしていたときのこと。
彼女は生徒を連れて現地の女子校の見学に訪れた。
イスラム圏の女性は顔をスカーフのような布で覆い隠し、素顔を見せることがない。
彼女が粘り強く交渉した結果、女性教諭と女子生徒のみ、見学が許されたのだった。
未婚の女性は、男性に素顔を見せないらしい。
だから、「女性のみ」という条件になった。
それで、子どもたちを連れて見学に行くと、現地の生徒はみんな素顔で暮らしていた。
それは至って普通の女の子の素顔で、楽しそうに学校生活を送っていたそうだ。
しかも、顔を覆い隠す布を取ると、みんなメイクをしていて美しい容姿だったのだ。
それで彼女は尋ねた。
「せっかく美しくメイクをしたのだから、みんなに見てもらいたくないの?」と。
みんな思春期の女の子たちであり、日本の女子中高生と変わらないように見える。
ところが、返ってきた答えを聞いて驚いた。
「なぜ愛する人以外に綺麗な顔を見せなければならないのか?」
なるほど。
メイクした顔、美しい顔は家族や愛する人に見せるためにある。
「不特定多数の人に見せる必要がなぜあるのか?」と逆に問うのである。
日本では家の中ではすっぴん。
風呂上がりパンツ一丁で出てくることもあるし、時に屁もこく。
一方、外に出て行くときはメイクをし、綺麗に着飾る。
既婚者であっても着飾る。
一体なぜだ?
そう問われて、彼女は言葉に窮してしまった。
マナーだ、社会人の嗜みだ。
そんな反論が聞こえてきそうである。
でも、たとえば既婚者であるあなたが同窓会に行くとする。
メイクに気合いを入れ、お気に入りの服を着るだろう?
一体なぜだ?
一体なぜなんだ?
イスラム圏の人から見れば、なぜ家族に美しくない姿を見せ、赤の他人に美しい姿を見せたいのだろうか?と疑問に思っても無理はない。
ちなみに、イスラム圏であるブルネイやアフガニスタンでは、不倫によって石打ちの死刑になっている国もある。
文化とルールがリンクしているとも言える。
日本では、赤の他人と接するときこそ容姿を整える。
わざわざリスクを高めるのはなぜだろうか?
人はそういう行為を忌み嫌うけれど、やってることは反対のことをしている。
ところで、結婚相手を選ぶとき、外見が良くて背が高くて高収入の男性を選ぶ。
冷静に考えると、そんな男を選んでは浮気する確率が上がってしまう。
チビでハゲで低収入の男性を選んだ方が浮気をするリスクは限りなくゼロにできる。
100歩譲って生活があるから収入は良いとして、見た目はできるだけ悪い方が安心できるのではないだろうか。
顔を布で覆い隠す必要はないが、外出するときはすっぴんにスエット姿が良い。
男性は寝癖だらけがいい。
そして、家に帰ったらピシッとメイクをし、バシッと髪を整え、スーツを着たらいいのかもしれないな、と思う。
家の中ではすごく魅力的で、一歩外に出たら異性にとって魅力ゼロになった方がいいのではないか。
なぜ家ではすっぴんでいて、外に行くときはメイクするのか。
それはとてもリスクのあることだ。
そりゃ可愛い姿を見せたら恋のひとつも落ちるかもしれないじゃないか。
臍曲がりの僕はそんなことを考えてしまう。
だいたい「人を好きになる」ってのは、そんなに器用にコントロールできるものなのだろうか。
意思の力で好きになったり、好きにならなかったりできるものなのだろうか。
そんなに意思の強い人間が、なぜダイエットをできないのか?
不思議でならない。
松本人志さんの話に戻そう。
週刊誌の記事によれば、高級ホテルの1室に女の子を呼んで飲み会をしようと誘ったらしい。
その件について「ホテルに呼ばれたのだから、大人ならそういうことがありそうなこともわかりそうなものだ」という主張と、「ホテルに呼ばれたからって、そういうことがあるとは限らない」という主張がぶつかりあっていた。
週刊誌で芸能人同士がホテルの出入口で写真を撮られて記事なるなんてことがよくある。
「ホテルに行った」=「そういうことがあった」という見方を自動的にしてしまう。
ちょっと面白い意見があって、「ホテルに呼ばれたからって、そういうことがあるとは限らない」というのであれば、芸能人同士がホテルの出入口で写真を撮られること自体は問題ないのではないか、みたいな意見があって、なるほどな、と思った。
こういうことって、突き詰めて考えると、人間がいかにも味わい深い生き物だと理解できる。
みんな、自分の見たいように、都合よく世の中を眺めている。
何より不思議なのは、自分とは無関係の世界で起こるスキャンダルに真剣に怒りを感じられる人たちの存在だ。
疲れないかな、と思う。