「言ってること」と「やってること」が違う人をどう理解すればいいか
「あの人、言ってることとやってることが全然違いません?」
と怒っているので、
「どうしたの?」
と尋ねたら
「ブログじゃいいこと書いているのに、やってること、全然違うじゃないですか!」
とのこと。
「言っていること」がその人の本音で
「やっていること」が嘘偽りだと思うから
怒りが湧いてくるのです。
「くれちゃんは腹が立たないの?」
と言うので、
「別になんとも思わないよ」
と答えました。
うん、言葉なんて、いくらでも嘘がつける。
でもさ、行動にこそその人の本音が現れるのよね。
本音に耳を澄ませてみれば
いくらでも偽ることができる「言葉」というものは
「また、なんか言ってるね」
ぐらいに聞き流すことができるわけです。
「だいたい人の言葉なんて、目を見ていたらわかりますよ」
って言ったら
「それ、先生が特殊なんですよ」
と言われましたが。
まー、それはさておき。
「言っていること」が嘘偽りで
「やっていること」がその人の本音だとわかっていれば
怒りなど湧いてはこないのです。
「言っていること」がその人の本音で
「やっていること」が嘘偽りだと思うから
怒りが湧いてくるのです。
昔、こんなことがありました。
ある生徒がクラスメイトの悪口を言う子でした。
先生はその子を叱りつけ、「反省してるの?」と言います。
その子は「もう悪口は言いません」と言い、「ごめんなさい」と頭を下げました。
先生は溜飲を下ろし、生徒を許したわけですが、その子はまた教室に戻ると大声で悪口を言うのです。
そんなことを何度も繰り返し、先生はどうしていいのかわからなくなってしまいました。
それで、「どうしたらいいですか?」と尋ねられました。
反省の言葉を言わせることは、大切なことではありません。
その後の行動が変わることが大切なのです。
それで彼を呼び出すと、彼はすぐに「ごめんなさい」と頭を下げましたので、
「そういうのはいりません」
と伝えました。
謝罪の言葉は必要ないのです。
「それで、これからどうしますか?」
と尋ねました。
「もう悪口は言いません」
と言うので、
「だから、言葉はいりませんよ」
と伝えました。
「あなたの行動が変われば、それでもってあなたは反省したのだなと伝わりますし、あなたの行動が変わらなければあなたは反省していないのだな、と伝わります」
彼はじっとこちらを見つめています。
「言葉はいりません。
行動で伝えてほしいのです。
さあ、どんな姿を
僕に見せてくれますか?」
と尋ねて僕は微笑みました。
それから、彼は「どうして悪口を言ってしまうのか」「どんな状況だったのか」と、いろんな言葉を吐き出しました。
彼は彼で、「悪口」を言わずにはいられない状況があったのです。
僕はただただそれを否定せず、受け止め続けました。
そして、
「悪口を言いたくなったらどうやってその気持ちを処理しようか?」
と一緒に考えました。
最後に
「僕が見ているのはあなたの行動だけです。
言葉はいりません。
そして、僕はあなたが僕の信頼を裏切るような人間でないことを知っていますし、信じていますよ」
と伝えました。
言葉はいくらでも偽ることができます。
でも、行動は偽ることができません。
だから、僕らは目の前の人の言葉ではなく、行動をよく見ていけば良いのです。
僕もまた彼を「信じる」と言ったことを行動として形にしていく必要がありました。
互いが「行動」でもって、互いの「信」に応えていくことが重要なのです。
さて、話を冒頭に戻します。
「あの人、言ってることとやってることが全然違うじゃないか!」
と腹が立つのは、「言葉」を信じるからです。
信じるべきは行動です。
行動にこそ「本音」が隠れています。
「言ってることとやってることが違う」のではなく
やってることが本音で、言っていることが偽りなのです。
そして、そのことを僕らは感覚的に知っていますから
「言ってることとやってることが違う人」を見ると
心が離れていきます。
「言行一致」という言葉があります。
「言っていること」と「やっていること」が「一致する」という意味です。
当たり前のことのようで、そう容易いことでもないのでしょう。
だから、わざわざ「四字熟語化」しているわけで。
「何をしているか」だけにフォーカスすればいいんです。
こんなブログを書いている僕だって、裏じゃ極悪非道の行いをしているかもしれないわけです。
そしたらきっと「言葉」か「行動」か、どちらが本当の僕かと問われれば「極悪非道」なのが僕ということになります。
言葉に引っ張られすぎないことです。
その人の「本当の姿」は「行動」で表現されるのですから。