罰則では「いじめ」を防ぐことができない
学校のおける「いじめ」を取り締まるルールのいうのは独特である。
まず、明確に「いじめ」の定義を定めていないし、罰則も明らかになっていない。
もちろん、公には「被害者がいじめられていると認識したらいじめ」みたいな定義がなされている。
ところがこれ、実際にはとても運用しにくい定義である。
クラスメイトに鼻をほじったり、ずっと爪を噛んでいたり、人の嫌がることを言ったり、奇声をあげたり、まー、人に避けられるようなことをしてしまう子がいたりする。
それで、周囲の子どもたちが距離を取る。
「無視する」とかではないが、距離を取り、深く関わろうとしないことも多い。
それで、その子が「みんなが無視してきた」と言い出す。
保護者も怒鳴り込んでくる。
案外こういう例は多く、被害者がいじめられていると感じたら「いじめ」という定義は、いじめられる側によるハラスメントのような側面もある。
声をかけただけでセクハラ扱いになったり、「がんばれ」って言ったらパワハラ扱いになったりと、過度に反応しすぎるとところがある。
この「人の嫌がる気持ち」というものに罰則を設けることはなかなか難しいのだ。
したがって、罰則というのも作りにくい。
自動車におけるスピード違反が罰金を取りやすいのは速度制限が明確にあるからである。
「なんとなく早過ぎたら罰金」みたいなルールにすると揉めるだろう。
集団で生きる人が集団を維持するために生み出した仕組みがルールである。
会社には就業規則があり、学校にも校則が存在する。
あらゆるスポーツにもルールがあり、ルールを守らないプレーは反則となる。
では、定義することが難しいものについては、どのようにすれば良いのだろうか。
ここで登場するのが、モラルとかマナーとか道徳という言葉で語られる類いのものである。
「いじめ」に対しては「人の嫌がることをしない」という不問律である。
言語化されていないが、人として守るべきラインと言えばいいだろうか。
ただ、この不問律が守られるためには、ある種のコミュニティが形成されている必要がある。
コミュニティの中で爪弾きにあっては生きていけない環境があるからこそ、この不問律は守られるのである。
守らないといわゆる「村八分」みたいな状況になる。
地域のお祭りに参加するとか、ゴミ出しのルールを守るとかがそれに当たる。
つまり、「いじめ」の指導にあたる大前提として、教室というのが誰にとってもそこが居場所となるコミュニティになっていなければならないわけだ。
逆にいえば、教室がそういう場所になっていないとき、いじめは起こる。
要するに、子どもたちにとって、教室が守るべき安心安全な場所になっていないのである。