同調圧力に屈するのは、あなたが弱いからではない
なぜ僕らは長いものに巻かれてしまうのだろうか?
同調圧力に屈してしまうのだろうか?
いじめっ子にもなりたくないし、いじめられっ子にもなりたくない。
いじめなんてこの世からなくなれば良いと、おそらく誰もが思っているのに、それを止められる者がほとんどいないのはなぜだろうか?
実は、僕らのDNAは多数派に従うようにできているらしい。
これは決して「いじめ」を肯定しているわけではない。
ただ、どうやら僕らの作りはそういうふうにできているらしい。
人間は論理で理解し、感情で行動する生き物である。
論理で言えば、いじめなど百害あって一理なしなのだが、加害者となり傍観者となってしまうには理由がある。
感情で行動する人間は、経験則に従って行動を選択する。
これまでの得た知見や経験に照らし合わせて行動を決めるのである。
この経験則というのは、既に経験済みの出来事では役立つのだが、未経験の出来事でも経験則で動いてしまう。
では、その経験とは何かというと、できるだけ多数派と同じ行動をした方が生き残れるという経験である。
原始の時代から僕ら人間の祖先はこの地球上で暮らしてきた。
人間は弱い生き物だから、徒党を組んで大型動物を狩り、集団で暮らして火を絶やさぬことで家族を守ってきた。
そういう集団で暮らすことを余儀なくされてきた僕ら人間にとって、集団の和を乱さぬことは生きる術だった。
当然、いろんな個性があって、多数派に従わず独自の行動を取った者もいただろう。
では、長い年月の中でどちらの個性が生き残り、現代にDNAを残してきたか、想像してみてほしい。
独自の行動を取った者たちは淘汰され、多数派として集団行動した者の方が生き残ってきたことは容易に想像がつく。
多数派に従い、集団の和を乱さぬように振る舞うことは、僕ら人間の生きる知恵なのである。
だから、大人たちは「いじめ」を見て「なぜ誰も止めないんだ?」と言うけれど、残念ながら「いじめ」なんてものは大人の世界にも存在していて、そう簡単には止められないものなのである。
いじめに限らず、人と人との諍いなどというものはないに越したことはない。
ところが、いっこうになくならないのは、人間が感情で行動する生き物だからに他ならない。
怒り、嫉妬、憎しみといった負の感情を抑えることは容易ではないのだ。
そこで登場するのが法であり、ルールだ。
集団で生きる人間が集団を維持するために生み出した仕組みといって良いだろう。