なぜあの人は優しいのか ──怒らない人がやっている、脳の運転技術
なぜあの人は優しいのか──それは性格ではない
「あの人は優しい人だよね」
そう言われる人がいます。
反対に、
「短気な人」
「すぐ怒る人」
そんなふうに評価される人もいます。
僕らはつい、
優しさも短気も「性格」だと思いがちです。
でも、本当にそうでしょうか。
不思議な光景を、何度も見てきました。
いわゆる“ヤンキー”と呼ばれるような人が、
お年寄りや小さな子どもには、驚くほど優しかったりします。
一方で、
普段は穏やかで優しい人が、
ある場面では急に語気を荒げることもあります。
同じ人です。
性格が急に入れ替わったわけではありません。
ここで、ひとつ大事な事実があります。
人は「常に同じ状態」で生きていません。
優しい自分もいれば、
短気な自分もいる。
どちらも“本当の自分”です。
では、何が違うのか。
僕はこれを
「脳の状態の違い」
だと考えています。
優しさは、性格ではありません。
才能でもありません。
もっと言えば、
「選択」でもありません。
ある条件が揃ったとき、
人は自然と優しくなる。
逆に、
ある条件が崩れたとき、
人は簡単に怒りっぽくなる。
ただ、それだけのことです。
例えば、こんな場面を想像してみてください。
・時間に追われている
・余裕がない
・責められていると感じている
・自分が否定されている気がする
この状態で、
穏やかに人と接するのは簡単でしょうか。
きっと、難しいはずです。
反対に、
・安心している
・受け入れられている
・自分は安全だと感じている
こんな状態のとき、
人は自然と他人に優しくなります。
頑張らなくても、です。
つまり、こういうことです。
優しさは「性格」ではなく、「条件反射」なのです。
脳が安全だと判断しているとき、
人は優しくなれる。
脳が危険を感じているとき、
人は防衛的になり、怒りやすくなる。
これは善悪の問題ではありません。
脳の、極めて自然な働きです。
「短気な人はダメな人」
「優しい人は立派な人」
そんな単純な話ではない。
同じ人が、
優しくもなり、
短気にもなる。
だからこそ、
「なぜこの人は怒っているのか」
「なぜ今、余裕がないのか」
そう考える視点が、とても大切なのだと思います。
この連載では、
・なぜ怒らない人がいるのか
・なぜ優しい人は優しくいられるのか
・その違いはどこから生まれるのか
これを
「脳の使い方」という視点から、
一緒に紐解いていきます。
優しさは、才能ではありません。
性格でもありません。
誰にでも起こる「脳の反応」です。
では、
怒らない人は、
何をしているのか。
次回は、
「怒り」が生まれる瞬間に、
脳の中で何が起きているのかを見ていきます。
怒りは防衛反応──人はなぜすぐキレてしまうのか
「なんで、あんなことで怒ってしまったんだろう」
後から振り返って、
自分の言動に落ち込むことはありませんか。
・言わなくていい一言を言ってしまった
・声を荒げてしまった
・感情的になって話がこじれた
そして、
「自分は短気だ」
「器が小さい」
と、自分を責めてしまう。
でも、ここで一度立ち止まって考えてみてほしいのです。
その怒り、本当に“あなたの性格”でしょうか。
結論から言うと、
怒りは性格ではありません。
怒りは、
脳の中で起きている
防衛反応です。
もう少し正確に言うと、
怒りは「扁桃体」という部位が主導して起こります。
扁桃体は、
危険を察知するセンサーのような役割を持っています。
・否定された
・攻撃された
・バカにされた
・コントロールされそう
こうした刺激を受けると、
扁桃体は瞬時に反応します。
「危険だ」
「身を守れ」
その結果として、
怒りが立ち上がる。
つまり怒りは、
身を守るための反応なのです。
ここで大切なのは、
怒りは「考えた結果」ではない
ということです。
怒りは、
考える前に出ます。
一瞬です。
理屈が入る前に、
身体が反応してしまう。
だから、
「冷静になれなかった自分」を
責めなくていい。
それは、
脳がちゃんと仕事をしていただけだからです。
では、なぜ
「すぐキレるとき」と
「そうでもないとき」があるのでしょうか。
その答えが、
心の余裕です。
心に余裕がないと、
怒りの沸点は一気に下がります。
これは根性論ではありません。
脳の仕組みです。
・睡眠不足
・疲労
・不安
・プレッシャー
・ストレス
これらが重なると、
脳は常に「警戒モード」になります。
すると、
扁桃体が過敏になる。
普段なら流せる一言に、
反応してしまう。
普段なら笑って済ませられることが、
許せなくなる。
これは、
あなたが未熟だからではありません。
脳が疲れているだけです。
僕はこれを
「怒りの沸点が下がっている状態」
と表現しています。
火にかけている鍋を想像してみてください。
余裕があるときは、
弱火です。
少し何かが入っても、
吹きこぼれない。
でも、
疲れているとき、
追い込まれているときは、
強火です。
ちょっとした刺激で、
一気に吹きこぼれる。
それが、怒りです。
だから、
「最近すぐイライラするな」
と感じたら、
「自分はダメだ」
ではなく、
「今、余裕がないんだな」
と捉えてほしい。
怒りは、
あなたの欠陥を示すものではありません。
限界が近いサインです。
ここで、
もう一つ大事なことをお伝えします。
怒りそのものは、
悪ではありません。
怒りは、
人間に備わった
安全装置です。
本来は、
命を守るためのもの。
ただし、
現代社会では
この安全装置が誤作動しやすい。
命の危険ではない場面でも、
脳は「危険だ」と判断してしまう。
評価される場面
叱責される場面
否定される場面
これらを、
生存の危機のように感じてしまう。
その結果、
怒りが出る。
だから、
怒ってしまった自分を
責める必要はありません。
まずは、
「今、脳が防衛モードに入っているな」
そう気づくだけでいい。
それだけで、
次の選択肢が生まれます。
次回は、
「怒らない人」は
何が違うのか。
なぜ同じ状況でも、
怒らずにいられる人がいるのか。
それは、
感情を抑えているからではありません。
脳の運転席に、誰が座っているか
その違いです。
なぜ優しさは人によって向きが違うのか
「この人、優しい人だな」
そう感じる相手がいる一方で、
同じ人を見て
「いや、あの人は冷たいよ」
と言う人もいます。
ある場面ではとても優しいのに、
別の場面では急に厳しくなる。
子どもには優しい。
お年寄りにも優しい。
でも、
ライバルやクレーマーには、まったく優しくなれない。
これもよくある話です。
では、ここで問いを立ててみます。
この違いは、
性格でしょうか。
僕は、そうは思っていません。
たとえば、
ヤンキーが子どもやお年寄りに優しい、という話。
これは決して珍しい話ではありません。
見た目は怖い。
口も悪い。
でも、困っている子どもを見ると、さっと手を貸す。
この現象を、
「本当はいい人なんだよ」
で片づけてしまうのは、もったいない。
ここにも、
はっきりした理由があります。
鍵になるのは、
脳の中にある
脅威評価(Threat Appraisal)
という仕組みです。
人の脳は、
目の前の相手を見た瞬間に、
無意識でこう判断しています。
「この人は安全か」
「この人は脅威か」
これは理屈ではありません。
感覚です。
そして、この評価は
驚くほど速い。
本人が気づく前に、
脳はもう結論を出しています。
子どもはどうでしょう。
力が弱い。
反撃してこない。
立場的にも、こちらが上。
脳は即座に判断します。
「この相手は脅威ではない」
すると、
防衛モードが解除されます。
扁桃体は静かになり、
前頭前野が働きやすくなる。
結果として、
声は柔らかくなり、
行動も穏やかになる。
これが、
子どもに優しくできる理由です。
では、ライバルはどうでしょう。
評価を競う相手。
自分の立場を脅かす存在。
負けたくない相手。
この瞬間、
脳はこう判断します。
「脅威だ」
クレーマーも同じです。
怒っている。
攻撃的。
理不尽な要求をしてくる。
脳は即座に
「危険」「防御せよ」
と反応します。
するとどうなるか。
第2話でお話しした通り、
扁桃体が主導権を握り、
怒りや強さが前に出る。
つまり、
優しさが出る余地がなくなる。
ここで、とても大事なことを言います。
優しさが出ないのは、
相手が「悪い人」だからではありません。
自分の脳が、
「安全ではない」と判断しているだけです。
つまり、
優しさの出る・出ないは
相手の属性ではなく
自分の安全評価で決まる
ということ。
だから、
同じ人でも、
・家では優しい
・職場では厳しい
・部下には寛容
・上司には攻撃的
こんな違いが生まれます。
これは矛盾ではありません。
脳が、
場面ごとに
安全度を評価しているだけ。
ここまで読むと、
こう思うかもしれません。
「じゃあ、
誰にでも優しくなるなんて無理じゃないか」
その通りです。
無理です。
少なくとも、
気合いや人格修行では無理。
でも、
可能なことはあります。
それは、
「相手を変える」ことではなく
「自分の安全感を整える」こと。
優しい人は、
我慢しているわけでも、
自分を抑えているわけでもありません。
脳が、
「この場は安全だ」
と判断できている。
それだけです。
だから、
ライバルに対しても、
クレーマーに対しても、
一定の余白を保てる。
次回は、
ここからさらに一歩踏み込みます。
なぜ同じ相手でも、
日によって優しくできたり、
できなかったりするのか。
そこには、
「心の余裕」と
もう一つ、決定的な要素があります。
優しさは、
感情ではありません。
脳の状態です。
次は、
「脳の運転席」の話を
さらに深くしていきましょう
優しい人は、人を信用していない──責めない人の設計思想
少し、誤解を招きそうなことを言います。
僕は、人を信用していません。
この言葉だけ切り取ると、
冷たい人間に見えるかもしれません。
でも、僕はこの考え方のおかげで、
人に対して怒らなくなりました。
そして、
人を責めなくなりました。
誰かがミスをしたとき、
多くの現場で起きるのは、こんな流れです。
「なんでこんなミスをしたんだ」
「次からは気をつけて」
「ちゃんと確認して」
そして当事者は、
「すみません」「以後気をつけます」
と頭を下げる。
一見、正しいやり取りに見えます。
でも、
ほとんどの場合、
同じミスはまた起きます。
なぜか。
理由はシンプルです。
人は、
思った通りには動かないから。
疲れる。
焦る。
勘違いする。
忘れる。
楽な方に流れる。
これは怠慢ではありません。
人間の仕様です。
ここで、
多くのリーダーがやってしまう間違いがあります。
それは、
個人の努力に期待すること。
「次は大丈夫だろう」
「もう同じミスはしないはずだ」
これは、
人を信じているようで、
実は人間をよく理解していない。
僕は、こう考えています。
人はミスをする。
忘れる。
判断を誤る。
感情に引きずられる。
だからこそ、
人に期待しない。
期待しない、というのは、
突き放すことではありません。
「どうせダメだ」と見切ることでもない。
そうではなく、
「そういう生き物だよね」
と、最初から理解しているということ。
だから、
誰かがミスをしても、
僕はあまり怒りません。
驚きもしません。
「ああ、起きたか」
「仕組みが甘かったな」
矢印は、
人ではなく、仕組みに向きます。
たとえば、
・確認が抜けやすいなら、チェックリストを作る
・判断がブレるなら、基準を明文化する
・疲れるとミスが出るなら、負荷を下げる
こうやって、
人が失敗しても大丈夫な設計を考える。
これは、
人を甘やかしているのではありません。
人を責めないための、
現実的な方法です。
ここで、
もう一つ大事な逆説があります。
信用しないから、怒らない。
人を「ちゃんとやれるはず」と思うから、
裏切られたと感じ、
怒りが生まれる。
最初から
「人はズレるものだ」
と思っていれば、
ズレても腹は立ちません。
呆れはしても、
怒りにはならない。
この違いは大きい。
そして、
この態度は、
人をもう一度立ち上がらせます。
怒られた人は、
萎縮します。
責められた人は、
自分を守ります。
でも、
責められなかった人は、
また挑戦できます。
ここで、
「許す」という言葉について
少し整理しておきます。
許すというと、
「我慢」
「見逃す」
「諦め」
だと思われがちです。
でも、僕にとって許すとは、
理解することです。
人は、
完璧じゃない。
感情的だ。
論理的じゃない。
矛盾する。
それを前提にしているから、
過剰な期待をしない。
そして、
過剰な期待をしないから、
怒らない。
寛容とは、
何でも許すことではありません。
寛容とは、
人間に過剰な期待をしないことです。
この視点を持つと、
人を見る目が変わります。
ミスをする人を見ても、
「ダメな人」ではなく、
「仕組みが合っていない人」に見える。
感情的になる人を見ても、
「未熟」ではなく、
「今、余裕がない人」に見える。
優しい人は、
感情的に優しいわけではありません。
冷静です。
現実的です。
そして、人間をよく見ています。
だから、
人を責めない。
次回は、
ここまでの話をまとめるように、
「優しさは、感情ではなく“技術”である」
という話をしていきます。
優しさは、
才能でも、性格でもありません。
運転の仕方です。
脳のハンドルを、
どこが握っているか。
その話を、
次でしましょう。
嫌いな人にも優しい人は、何をしているのか
不思議に思うことがあります。
どう考えても理不尽な相手。
明らかに攻撃的な人。
クレーマー、ライバル、話が通じない人。
そんな相手に対しても、
淡々としていて、
どこか落ち着いていて、
変に感情を揺らさない人がいます。
あれは、
我慢しているのでしょうか。
悟っているのでしょうか。
人格が完成しているのでしょうか。
違います。
やっていることが違うだけです。
まず、はっきりさせておきたいことがあります。
嫌いな人に優しくできる人は、
相手を好きになっているわけではありません。
「この人も事情があるから…」
と無理に納得しているわけでもありません。
もっとシンプルです。
相手に、自分の価値を預けていない。
これが、決定的な違いです。
人が怒るとき、
実は何が起きているか。
多くの場合、
こんな内側の反応があります。
「見下された」
「軽く扱われた」
「否定された」
「自分の価値が傷ついた」
つまり、
怒りの正体は、
出来事そのものではありません。
自分の価値が脅かされたと感じた瞬間です。
ここで、二つの状態を比べてみましょう。
優しくなれない状態
・相手の態度で気分が決まる
・評価や言葉に一喜一憂する
・否定されると、自分が揺らぐ
・「失礼だ」「許せない」と反応が即座に出る
この状態では、
脳は防衛モードです。
扁桃体が優位になり、
「守れ」「反撃しろ」という信号が出ます。
怒りが出るのは、
むしろ自然です。
優しくなれる状態
一方、嫌いな相手にも
落ち着いて対応できる人は、
何をしているか。
彼らはこう考えています。
「この人が何を言おうと、
自分の価値は変わらない」
「この反応は、
この人の問題であって、
自分の問題ではない」
ここで働いているのが、
メタ認知です。
メタ認知とは、
「自分を一段上から見る力」。
感情に巻き込まれる前に、
こうやって一歩引く。
「今、相手は攻撃的だな」
「自分はムッとしているな」
「これは、価値の話ではないな」
この瞬間、
脳の主導権は
扁桃体から前頭前野に移ります。
つまり、
感情が運転席から降ろされる。
ここで重要なのは、
前頭前野優位の状態は、
我慢ではない、ということ。
我慢は、
感情を押さえつけます。
でもメタ認知は、
感情を“観察”します。
観察している限り、
感情に飲み込まれません。
だから、
余裕が生まれる。
嫌いな人に優しくできる人は、
こう思っています。
「この人は、今、荒れているな」
「余裕がないんだろうな」
「まあ、そういう日もあるよな」
これは、
相手を肯定しているわけではありません。
自分を守っているのです。
ここで、
とても大事なことを言います。
優しさとは、
相手のための行為ではありません。
自分の価値を、
相手の言動に委ねないための技術です。
だから、
優しさは消耗しません。
無理もしません。
「いい人」を演じていないから。
逆に、
自分の価値を相手に委ねていると、
・評価されたい
・認めさせたい
・分かってほしい
この欲求が強くなり、
拒絶された瞬間、
一気に崩れます。
そして怒りになる。
嫌いな人に優しくできる人は、
感情がないわけではありません。
ちゃんと腹も立ちます。
違和感も覚えます。
ただ、
それを「自分の価値の問題」にしない。
この一線を、
無意識に引いている。
優しさの正体は、
人格ではありません。
才能でもありません。
自分の価値を守れる脳の使い方です。
次回は、
ここまで出てきた話をまとめながら、
「優しさは、訓練できるのか」
という話をします。
優しさは、
身につくのか。
育てられるのか。
答えは、
イエスです。
その理由を、
次で話しましょう。
心に余裕がなくなると、人は誰にでも優しくできなくなる
ここまで読んでくれた人の中には、
こんなふうに思った人もいるかもしれません。
「理屈はわかった。でも、いつもそんな余裕はない」
「優しくありたいけど、現実はしんどい」
「疲れているときは、どうしても無理だ」
その感覚は、とても健全です。
なぜなら――
優しさは、常に出せるものではないからです。
まず、はっきりさせておきたいことがあります。
人が優しくできなくなるのは、
性格が悪くなったからではありません。
心が狭くなったからでも、
人間として劣化したからでもありません。
単に、余裕がなくなっているだけです。
脳の話をしましょう。
人が忙しさ・疲労・不安にさらされると、
脳はまず「生き残ること」を優先します。
・時間が足りない
・評価が気になる
・失敗できない
・余計なことに構っていられない
こうした状態が続くと、
脳は省エネモードに入ります。
このとき、
前頭前野(考える・待つ・俯瞰する)は後回しにされ、
扁桃体(守る・反応する)が前に出てきます。
つまり、
余裕がなくなるほど、反射的になる。
これは、誰にでも起きる現象です。
だから、
・忙しい親ほど、子どもに強く当たる
・疲れた上司ほど、部下にイライラする
・追い詰められている人ほど、言葉が荒くなる
これは珍しい話ではありません。
むしろ、とても人間的です。
ここで大切なのは、
「本当は優しい人」が
優しくできなくなる瞬間がある
ということです。
普段は穏やかで、
人の話を聞けて、
配慮もできる。
そんな人でも、
・寝不足が続いたとき
・仕事が立て込んだとき
・家庭と仕事の板挟みになったとき
急に、余裕が消えます。
そして後から、こう思う。
「なんで、あんな言い方をしたんだろう」
「本当は、あんなふうにしたくなかった」
これは、
あなたが偽善者だからではありません。
エネルギーが切れていただけです。
ここで、優しさの正体が見えてきます。
優しさは、
道徳でも、美徳でも、根性でもありません。
エネルギーです。
余裕という名のエネルギー。
余白という名の燃料。
それがあるとき、
人は自然と優しくなれます。
それが尽きると、
誰であっても荒くなる。
だから、
優しくなれない自分を責める必要はありません。
責めるべきは、
性格ではなく、環境です。
・詰め込みすぎていないか
・休む余地はあるか
・「ちゃんとしなきゃ」が多すぎないか
ここを見直さずに、
「もっと優しくなろう」とするのは、
ガソリン切れの車に
「もっと速く走れ」と言っているようなものです。
優しさを取り戻したいなら、
最初にやるべきことは一つです。
回復すること。
性格を直すことでも、
考え方を変えることでもありません。
余白を取り戻すこと。
・少し休む
・一人になる
・何もしない時間をつくる
・責任を一つ降ろす
これだけで、
人は驚くほど変わります。
優しい人は、
ずっと優しいわけではありません。
ちゃんと疲れるし、
ちゃんと余裕を失う。
ただ、
回復の重要性を知っている。
だから、
自分を追い込まない。
優しさとは、
気合いで出すものではなく、
整った状態で自然に出るものです。
だから、
まず整える。
自分を責める前に、
自分を休ませる。
それができる人ほど、
また人に優しくなれます。
次回は、
ここまでの話を一段深めて、
「優しい人が、怒らない理由」
について話します。
それは、
我慢していないから。
そして、
諦めているからでもありません。
その正体を、
次で言葉にします。
優しさの5段階──あなたは今、どこにいるか
ここまで読んでくれた人の中には、
こんな疑問が浮かんでいるかもしれません。
「結局、優しい人って、どこまでできる人なんだろう」
「自分は、優しい方なのか、それとも足りないのか」
でも、ここで一つ先に言っておきたいことがあります。
優しさに、合格ラインはありません。
そして、
誰かと比べるものでもありません。
今日は、
「優しさ」を優劣ではなく、
状態として捉えるための話をします。
僕は長年、人を観察してきました。
学校でも、家庭でも、組織でも、
「優しい人」と呼ばれる人たちを見てきました。
その中で見えてきたのは、
優しさには“段階”がある、ということです。
ただし、
これは進化の階段ではありません。
そのときの状態によって、行き来するものです。
今日は、その5段階を言葉にしてみます。
第1段階:弱者に優しい
子ども
高齢者
体の不自由な人
困っている人
この段階では、
相手が明確に「守るべき存在」なので、
脳が安心して優しさを出せます。
これは、とても自然な優しさです。
そして、多くの人がここにいます。
第2段階:好きな人に優しい
家族
友人
信頼している人
気の合う人
相手が「味方」だと認識できると、
人は簡単に優しくなれます。
ここでも、
脳の安全評価は高いままです。
これも、何もおかしくありません。
第3段階:他人に優しい
特に親しくはないけれど、
特に敵でもない人。
この段階では、
少しだけ余裕が必要になります。
忙しすぎたり、
疲れていたりすると、
ここが一番削られやすい。
だから、
ここでつまずく自分を責めなくていい。
第4段階:嫌いな人にも冷静
ここで、一気に難易度が上がります。
嫌い
苦手
価値観が合わない
過去に嫌なことをされた
それでも、
感情的にならず、冷静でいられる。
これは、
「優しさ」というより
自分を守る技術です。
相手に飲み込まれない。
相手に価値を委ねない。
前頭前野がしっかり働いている状態です。
第5段階:攻撃的な人にも寛容
理不尽
攻撃的
クレーマー
怒りをぶつけてくる人
この段階では、
相手を「問題」ではなく、
「状態」として見ています。
「ああ、この人は今、余裕がないんだな」
「何か守ろうとしているんだな」
そう理解できると、
反応しなくなります。
ただし、
ここに“いなければならない”わけではありません。
大切なのは、ここです。
どこがゴールか、ではありません。
優しさは、
段階を上がり続けるものではない。
その日の体調
心の余裕
置かれている環境
それによって、
人は簡単に段階を行き来します。
昨日は第4段階でも、
今日は第1段階かもしれない。
それでいい。
優しい人とは、
常に高い段階にいる人ではありません。
今の自分が、どこにいるかを知っている人です。
そして、
無理に上がろうとしない人。
今日は第2段階だな。
今日は第3段階までで精一杯だな。
それを認められる人は、
自分にも他人にも優しくなれます。
優しさは、努力目標ではありません。
自己診断の道具です。
「今日は何段階かな」
それくらいで、人は十分です。
次回は、
この連載の締めとして、
「優しい人は、なぜ怒らないのか」
その核心をまとめます。
それは性格でも、修行の成果でもありません。
脳の運転席に、誰が座っているか
ただ、それだけの話です。
寛容な社会をつくる人へ──怒らない人が世界を変える
世の中を見渡すと、
「怒り」がとても多い時代だな、と思います。
SNSを開けば、
誰かの発言が切り取られ、
「それは間違っている」
「許せない」
「おかしい」
という言葉が一斉に飛び交う。
少しでも自分と違う意見に出会うと、
すぐに白黒をつけようとする。
僕は、この状態を
**「怒る社会」**と呼んでいます。
怒る社会では、
人は安心して意見を言えません。
間違えないことが最優先になり、
正しさが武器になり、
違いは攻撃の理由になります。
でも、それは本当に
人が育つ社会でしょうか。
僕が目指したいのは、
まったく違う世界です。
「あなたは、そう思うんだね」
「私は、こう思っているよ」
それだけで会話が続く社会。
同意しなくてもいい。
納得できなくてもいい。
否定しないことが、
対話のスタートになる社会です。
パクチーが嫌いな人がいていい。
パクチーが大好きな人がいてもいい。
善人がいていいし、
未熟な人がいてもいい。
正しさが一つではないことを、
前提にしている社会。
それが、
寛容な社会だと思っています。
ここまでの連載で、
繰り返しお伝えしてきたことがあります。
怒らない人は、
感情を持たない人ではありません。
我慢している人でもありません。
脳の運転席を、ちゃんと選んでいる人です。
扁桃体がハンドルを握りそうになったとき、
前頭前野にそっと交代させる。
「今、守ろうとしているだけだな」
「この人にも、理由があるんだな」
そう一歩引いて見られる。
これは才能ではなく、
技術です。
そして、この技術が
最も必要とされるのが、
リーダーという立場です。
僕が考えるリーダーとは、
・人を育てる人
・人を許す人
・人を束ねる人
・誰かの背中を押す人
です。
教室なら先生。
家庭ならお父さんやお母さん。
職場なら管理職や経営者。
スポーツならキャプテンや監督。
立場は違っても、
共通しているのは、
人の感情を受け止める側に立つ
ということです。
人は、期待通りには動きません。
言ったことと、やることが違う。
何度言っても、同じミスをする。
矛盾したことを言う。
それが人間です。
ここで人を責めるのは簡単です。
でも、責めても人は変わりません。
だから、
怒らない人は、
人を信用しすぎない。
期待しすぎない。
その代わり、
仕組みを考える。
環境を整える。
人間を理解した上で、設計する。
これが、優しいリーダーの思考です。
優しさとは、
弱さではありません。
甘さでもありません。
世界を壊さないための知性です。
怒れば一瞬で終わる場面で、
怒らずに場を保つ。
白黒をつけられる場面で、
あえてグレーを許す。
それは、
とても高度な判断です。
この社会は、
誰か一人の正しさで動いていません。
多様な価値観が、
ぶつかりながら、
それでも一緒に進んでいく。
だからこそ、
怒らない人が必要です。
許せる人が必要です。
束ねられる人が必要です。
もしあなたが、
「人を責めないでいたい」
「怒りたくないと思っている」
「それでも、人を信じたい」
そう感じているなら。
あなたはもう、
寛容な社会をつくる側の人です。
特別なことをする必要はありません。
ただ一つ、覚えていてほしい。
優しさは、性格ではない。
才能でもない。
選び続ける運転技術です。
そして、その技術を持つ人が、
静かに世界を変えていきます。
怒らない人がいる場所から、
社会は変わります。
ここまで読んでくれて、
本当にありがとうございました。
また次の連載で、
今度は「素直さ」という
もう一つの人間の不思議を、
一緒に探っていきましょう。
優しさの次は、
素直さです。
人間は、
まだまだ面白いですから。





