生きてこそ、生きてこそだぜ!
娘に救われた日
僕はあの日、地下鉄に飛び込もうとした。
おもしろいものだ。
線路に、スーっと引き込まれていく感じ。
なんていうか、自分の意思とは関係なく、地下鉄の線路に吸い込まれていく。
ブラックホールに吸い込まれる感じね。
ブラックホールに吸い込まれたことはないけど 笑
すると、暗闇の中から、2つの前照灯がこちらに向かってやってくる。
(あと少しで楽になれる…)
心からそう思った。
変な話だけれど、ほっとしていた。
深い安堵ってやつだ。
ところが、だ。
僕の右腕を何かが引っ張るような感じがした。
僕はその感じに誘われて、右手に目をやった。
そこに握られていたのは、折りたたみ式のガラケーだった。
2歳になったばかりの長女の写真が映し出されていた。
その瞬間、僕は右手に引っ張られるようにホームから離れた。
目の前をすごいスピードで、地下鉄が通り過ぎていった。
心は壊れることがある
僕は、まいっていた。
心はもう限界だった。
朝から謝罪の電話を続け、午後からは家庭訪問。
板の間で2時間も3時間も正座をさせられる。
そんな日々が3週間。
心も身体も限界だった。
タバコの煙を浴びせられながら、罵倒される毎日。
そもそも、自分が何をしたのかもわからないため、対処のしようがなく。
終わりのないトンネルのような日々がずっと続いていた。
いつも一緒についてきてくれる先生がいた。
僕がもっとも信頼をおいていた先生だ。
ただ楽しんでいる。
弄んでいる。
そんな保護者だった。
「一人で家庭訪問に行かせるわけにはいかない」と、毎日付き合ってくれた先生だった。
「つながり」が途切れると生きる希望がなくなる
クレームの理由もよくわからない。
ただ、毎日呼び出され、罵倒され、だから謝罪し続けていた。
だが、僕が最後に心が折れたのは、そんな保護者とのやりとりではなかった。
毎日のように会議が開かれ、いろんな先生がアドバイスをくれた。
言われた通りに行動した。
もはや、僕の判断などできる状況ではなかった。
潰れるのは時間の問題だった。
できれば、早く潰れたかった。
案外タフな自分を呪った。
ある日のことだ。
僕は、精神的にいっぱいいっぱいだった。
そんな僕に、その一番信頼していた先生はこう伝えた。
「もうちょっとくれちゃんらしく、保護者に思いを伝えてみたら?」
その瞬間、僕の心は完全に折れてしまった。
僕の頭の中は悲しみと怒りでいっぱいだった。
(今の状況は、僕が悪いのか?)
それだけが、頭の中でグルグルしていた。
それでそのままフラフラと一人、地下鉄まで歩き…。
「つながり」とは生きる希望
だが、死ねなかった。
いや、死なせてもらえなかった。
今、こうして生きているのは、そんなことがあったからだ。
僕は人が生きることをあきらめるのは、「つながり」が途切れたときだと思っている。
だから、「つながり」をテーマに子育て講座をしている。
「9月1日に君を死なせないプロジェクト」だって、映画の上映会を通して、生きることに苦しんでいる子どもたちとつながりたいと考えている。
その後、僕は明るい時間に学区内を上手に歩くことができなくなった。
前方から人が来る。
気がつくと、道路を曲がっている。
「人が怖い」
無意識に曲がってしまうので、駅にたどりつけない。
そんな自分を知って、笑ってしまった。
仕方がないので、毎日駅とは全然違う方向に向かい、2駅先の駅から帰ることにした。
心って、壊れるとわけがわからない。
意味のない出来事なんて、ない!
ところが、だ。
この話には続きがある。
のちに僕は、いろいろな学校で生徒指導主事をすることになる。
保護者が乗り込んでくるような修羅場を何度も体験した。
学級担任の先生が追い込まれてしまう。
そんな場面は何度もあった。
だが、僕は平気なのだ。
そう、あのときに比べたら、すべて生ぬるいのだ。
でも、そのことに気がつけたのは、ある先生の一言だった。
「くれちゃんは、あれだけ保護者に言われても、なんで怒らないの?」
批判ではなく、賞賛を含んだ問いだった。
そのとき、僕はハッとした。
たしかに僕は、どんな修羅場でも平然としている。
むしろ楽しんでいる。
保護者が怒鳴り込んできても、その話を2時間、3時間と聞き続ける。
そうか、あの保護者にも育ててもらったんだな。
そう思うと、笑える話なんだけど、感謝の念さえ生まれた。
あれがなければ、「つながり」の講座なんてやってないだろう。
あれがなければ、子どもの自殺に着目してプロジェクトをやろうなんて思わなかっただろう。
すべてはつながっている。
人生に意味のない出来事など1つもないんだ。
創造的な人生を生きるためのしつもん
あなたを育ててくれた出来事は、どんな出来事ですか?