本当の「わかる」とは何か。
出産のことは、教科書ではわからない。
書いてあるけど、わからない。
やはりその場に身を置いてはじめてわかることがある。
我が家には3人の子どもがいる。
いずれも異なる病院で生まれ、そのすべてに立ち会った。
残念ながら、僕自身は子どもを産んだことはないし、いくら科学が進歩しても、今後出産を体験する可能性は少ない。
それでも、その場に身を置いたから「わかる」というものがある。
出産に伴う痛みを味わうことはできないけれど、その場にいて感じることはできるのだ。
だが、その場に身を置けば、本当に「わかる」のだろうか。
実はそうではない。
想像力が必要なのだ。
では、この想像力の礎となるものは何か。
それもまた、経験である。
経験したことと照らし合わせ、僕らの想像力は発揮される。
「あのときの痛み」と照らし合わせ、妻の痛みを想像するわけだ。
想像力の欠如は生活体験の乏しさから生まれる。
youtubeで学んでも、教科書で学んでも。
それから、バーチャルリアリティがさらなる発展を遂げても。
リアルな社会での経験が乏しければ、僕らは何もわからないのではないだろうか。
学ぶとは何か。
わかるとは何か。
今一度考えてみていただきたい。