本当の意味で「話を聞く」とはどういうことなのだろう?
先日、学校の先生たちとの勉強会で、こんな話題が出た。
若い先生の指導に当たったベテランがいまして、この先生というのがなかなか曲者という噂。
これまでいろんな学校で若い先生を潰してきたらしいという先生でして。
たしかに、仕事に厳しく、当たりが強い人ではありました。
それで、若い先生を指導したら、その先生がですね、病休に入られたんですね。
親まで乗り込んできて大変だったのだそう。
それで、管理職だった彼は、指導に当たったベテランの先生に声をかけたんですね。
部屋に呼びまして、指導が問題になっているという話をしましてね。
そしたら、今度はそのベテランの先生がお休みに入られて、さあ大変!
そんな話題が出ました。
それを聞いてた勉強会参加の先生たちが「そういうベテランいるよね」「困るよね」みたいな話で盛り上がってたわけです。
でもね、僕はずっと違和感を感じていました。
僕はこれまで、「出来事をフラットに見る」ということを心がけてきました。
人間は常に偏見で出来事を眺める癖があります。
たとえば、政治家が金持ちだと「悪いことをしたんだろう」と思ってしまう。
教室から財布が無くなったら、1番最初に疑われるのは不良少年か貧しい子か。
偏見は妄想で彩られた物語を勝手に創作してしまう。
そんなところがあるんですね。
僕はずっと生徒指導の先生をしてきました。
問題行動があると、話を聞くのですが、偏見を持って聞くと、ちゃんと聞けないんです。
日頃、やんちゃなことばかりやっている生徒を見ると、「また、コイツが悪さをしたんだろう?」と、そういうのが頭の片隅にあって、判断を誤らせるわけです。
いろんな学校で若い先生を潰してきたという噂は本当なのだろうか?
なぜそんな人が指導する立場なのだろうか?
社会人の子どもの職場に親が乗り込んでくるって、どんな家庭だろうか?
これは決して、ベテランの先生を擁護しているという話ではなく。
人間って事実と主観を切り分けて考えることが苦手です。
今ここで聞いた話では、何も事実がわからない、という話です。
「誰かが嘘をついている」とか、そういう低次の話をしているんじゃありません。
「この話では事実はわからない」って話をしてるんですね。
そして、事実がわからないのに、その「聞いた話」だけでジャッジをしてしまう僕らがいるという事実が問題だと述べているのです。
話を置き換えてみましょう。
学級にちょっとキツめの性格の学級委員の女の子がいます。
学級に転校生がやってきて、担任の先生が「お願いね」と言う。
学級委員の女の子、面倒見は良いんだけどちょっと言い方がきつくて。
その転校生の子、次の日から学校に来なくなっちゃったんです。
他の生徒に聞いたら「だって、先生。あの子、昔から厳しくて、よく周りの子泣かしてましたからね」「そうそう、いじめだって言われたこともあるんでよ」なんて、次から次に出てくる。
それで、その先生は学級委員の女の子を呼び出して指導するんですね。
「なんて言ったの?」「厳しくしたんじゃないの?」って。
そしたら彼女、泣きながら教室を飛び出していったんです。
こうやって置き換えてみると、物語が違った角度から見えてきます。
僕は対応の是非を問うているのではありません。
僕もまた言い方のキツい人間のため、人によっては責められていると感じる人もいるでしょう。
でもね、僕が問題にしているのは対応ではないのです。
僕らはもっと、自分が掛けている偏見のサングラス🕶️に気づかねばならないという話をしているんですね。
自分が見えている世界は、本当にそのままの世界なのだろうか?と。
いつも「本当に?」と問うのは、僕らのものの見方や考え方には、そんな偏りがあるからなのよね。
ですから、この勉強会の最後、僕はこんな話をしました。
僕にも経験があるんです。
で、そのときはその先生が悪いと思ってて、ロクに話を聞きもしなかった。
聞いてあげればよかったな。
もっと話を聞いてあげれば、本当はどうだったのか、理解してあげられたと思うんです。
後悔してるんですよね。
「あの子はそういう子だ」っていうレッテルを貼るとね、僕らの耳は閉じてしまうんです。