愛の人には愛の人、粗暴な人には粗暴な人。類は友を呼ぶんだぜ!
僕の講座に来てくれる人は、優しい人が多い。
もう少し突き詰めて言うと、繊細な人が多い。
そんな話を仲間としていた。
そういえば、あまり大声でワーワー言うような人が来ないww
不思議なものだ。
繊細な人は刺激に弱い。
だから、大きな声で威嚇するような人が大の苦手だ。
以前、学んでいた講座。
僕はいろんな講師さんから学んでいたのだけど、あるときその講座を作っている本家本元の人の講座を受講したときのこと。
本家本元なのだから、僕として大きな期待を持って伺った。
なにせ、他の講師さんからお話を伺ったときは、その講座がとっても楽しかったからだ。
本家本元なのだから、さぞ素晴らしい講座なのだろうと思った。
ところが、蓋を開けてみると、残念で極まりない内容だった。
講座そのものも、関係ない話が長く、何を言いたいのかわからず面白くなかった。
さらに、近所の人に暴力を振るったとか、追いかけ回したとか、そんな話を汚い言葉遣いで伝える。
時には大きな声を出したりもする。
本人はたぶん、それを「面白いエピソードトーク」だと思ってるのだろうけれど、受講者は苦い顔をしていたのを今でも思い出す。
後日、知り合いの社長さんと飲みに行って、「なんであんな話をするんだろうな」という話題になった。
「講座に行って、あんな話されて、それで面白いと思う神経がわからない」と言うので、「そうですね」とだけ答えておいた。
そういう話しかできないのだろう。
講師としての自信のなさがフリートークに出てしまうのである。
僕の繊細さは、そういうところまで心を行き届かせてしまう。
だから、そういった人とのやり取りは、本当に疲弊する。
「類は友を呼ぶ」というから、たぶんそういう講師の元には、そういう人たちが集まってくるのだろうと思う。
行動にしろ、言葉にしろ、暴力を許容する人たちとは距離を置きたい。
刺激に弱い繊細さんにとって、大きな声を出したり、粗暴な話題というのは、心を痛めるきっかけになる。
僕の講座はとにかく優しい。
確かに僕は現役の先生だった頃のエピソードというのは、なかなか過酷な出来事が多い。
でも、それらを怒りで解釈するのではなく、愛で理解している。
こんな酷いことを言われた。
こんな酷いことをされた。
でもね、その裏には、この子たちの、この親たちの、こんな思いがあったと思うんだ。
そんな話をする。
豊かな感受性といえば聞こえはいいが、繊細過ぎる感性と呼んだ方がいいのかもしれない。
事象を愛で受け止めて、愛で理解する。
そんなことを心がけている。
心がけている、というよりは自然にそうなってしまう。
そんなわけで、やっぱり「類は友を呼ぶ」というのがあって、僕のところに集まってくるのは、「愛の人」が多い。
だから、本当に不思議なんだけど、「この人、うるさいな」「この人、面倒臭いな」みたいな人が一人も来ないのである。
優しくて繊細で目の前の人を理解しようとする、愛の人である。
つまり、これは、あれだ。
自分の周りの人を見てごらんということさ。
あなたの周りにいる人を見れば、あなたの姿が見えてくるということ。