子育てにおいて「放任」と「信じて手放すこと」の境界線はどこか
子どもにどのくらい手をかけたらいいだろうか。
あれこれ口うるさく言うのもなんだか違う気がする。
かといって、ほったらかしというのも放任主義のようで、気持ちが悪い。
「叱らない子育て」なんてのが流行ったおかげで、「叱れない子育て」になってはいないだろうか。
親としてどのくらい手出し口出しして良いものか、考えてみたい。
昨日、家族でスーパー銭湯に行った。
小学6年生の次男坊は、生意気にもサウナに入る。
とはいえ、19歳の兄や僕と同じペースで入っていては身体がもたないので、彼は彼のペースで入る。
こういうとき、子どもを信頼して自由にさせてあげられるのは、「風呂屋での流儀」ってヤツを、教えてあるからだ。
ウチの子は品行方正、大人顔負けの風呂の入り方をする。
親として何をどこまで伝えればいいだろうか。
脱衣所には身体を拭いてから上がる、とか。
湯船にタオルを浸けない、とか。
そういう最低限のルールを教えてある。
だから、信頼して彼に任せることができる。
温泉に行くと、時折いい歳をした大人がタオルを湯船の中に入れてしまったり、サウナから出た後、汗も流さず水風呂に入ったりする人を見かけたりもする。
マナーの悪い人、と断罪するのは簡単だけれど、もしかしたら誰も教えてくれなかったのかもしれない。
それはとても不幸なことである。
大人になったとき、恥ずかしい思いをしないで済む程度の最低限のことは、やはり親が教えてあげた方がいい。
家庭で性教育はなかなかハードルが高いかもしれないが、最低限性器の洗い方ぐらい男親が教えてやらねばな、と思う。
親はついつい「やり方」に手出し口出しをする。
それは子どもの行動する力を奪う行為だ。
サッカーに例えれば、プレーに口を出すようなことはしなくて良い。
だが、ボールを手で触ってはいけないというルールは教えてやらねば恥をかく。
「恥をかいて学ぶ」ということも一理あるが、かく必要のない恥ならばかく必要がない。
最低限、恥をかかぬ程度に流儀は教える。
その中でどう自分を表現するかは子ども自身が選択すれば良いと思う。
露天風呂にある涼む椅子に、次男坊と年齢が同じくらいの男の子が腰を下ろしていた。
近くに親の姿はなかった。
去り際、湯桶で椅子にお湯をかけていった。
よく躾けられた子だ。
きっと親も同じように振る舞っているのだろう。
こういうことは親がその背中で見せるのが良い。
なんだか今日の記事はオヤジ臭い。