変わろうとしなければ、忙しさはこれからも続くのだよ
若い頃はベッドの中にいて身体を起こせたら仕事に行く、と決めていた。
熱があっても仕事に行く。
授業に穴を開けない。
そういう先生だった。
病院で「インフルエンザ」の診断を受けると、やっと休めた。
休むことは悪いこと。
そんな意識があった。
休むときは、休んでいる間の「課題」を準備しなきゃいけない。
学習プリントを用意して、学校に送る。
自分の授業の時間、手の空いている先生に代わりに行ってもらう。
翌日、学校に行くと「ありがとうございました」と言わなきゃいけない。
別に感謝はしてるんだけど。
この「お礼を言わなきゃいけない空気」に疑問を感じた。
誰だって体調を崩すことがある。
夜眠る前は調子がよかったのに、目覚めたら熱がある。
そんなことって、あると思う。
仕事を休むのは、よほどのことで、かなり体調が悪いはず。
それなのに、授業の準備をしなきゃいけない。
2学年授業があった日には、2学年分の教材を用意しなきゃいけない。
朝の短時間で教材を用意するのは健康なときでも大変だ。
まして、体調が悪ければ、それはさらにさらに困難になる。
それを思って以来、僕は教材を大量に準備しておくことを思いついた。
いつでも休めるように、大量にストックしておく。
ただし、これ、自分のためではない。
他の先生から「休みたい」と連絡があったとき、「何かやらせておくことある?」と尋ねる。
「授業をここまで進めておいてほしい」と言われれば進めておくし、「何もない」と言われれば自分のストックをやらせる。
「休みたい」ほど体調が悪いのだから、学校のことなんて考えずにさっさと眠りについたほうが良い。
若い頃、大変な思いをしたからこそ、他の人には同じ思いを味わってほしくないな、と思った。
「ワシらの若い頃は苦労した。だから、最近の若者も苦労すべきだ」
そういう感覚って僕にはわからない。
自分が嫌だったことは人にさせたくない。
もっとより良く改善していけばいい。
海外で学校の先生をしているとき、職員会議の資料はすべてPDFになっていた。
共有サーバーにデータが保存され、会議の資料は期日までにフォルダに入れておけば、会議資料として1つのPDFにまとめられていた。
会議の日になると、みんながそのデータを開いて、会議に参加する。
とても簡単な仕組みである。
帰国すると、また紙の会議資料に戻った。
すべて印刷してホチキスで留める。
春先の会議資料は膨大だ。
「PDFで管理している学校もありますよ」と伝えると、「そんなのは手間だ」という返事が返ってきて驚いたことがある。
どう考えたって、印刷する方が手間なのだけど、人間って変わりたくない生き物だから仕方がない。
新しいことをやるってエネルギーが必要だ。
とにかく楽をした方がいい。
僕はそう思っている。
春先、子どもたちが提出する書類は多い。
一つひとつ点検をするんだけど、不備がいっぱい見つかる。
それを子どもたちに伝えていく。
やることは多いから、なかなか書類点検に時間が割けない。
子どもたちが帰ってから点検するのだけど、会議も多いから大変である。
僕は廊下にブースを作り、担任の先生が学級活動をしている間、順番に書類を持ってこさせた。
一人ひとりその場で点検をし、不備があれば付箋を貼って指摘した。
チェック表を渡し、何が出せていて、何が出せていないのか、明確にした。
担任の先生は書類のチェックから解放され、学級に専念できる。
当然だけど、他の学年はそんなことをしていないから、放課後、先生たちは書類と悪戦苦闘している。
目の前に生徒がいないから、メモも細かくなる。
それで他の学年主任の先生から「自分でチェックさせないと、書類の指導ができなくなる」みたいなことを言われたことがある。
それは一理あるようにも思えるけれど。
なんといっても春は忙しい。
紛失するリスクもあるし、不備だと思ったら不備じゃなかったとかもある。
子どもを通して保護者とやりとりをするので、些細な気持ちのすれ違いも生みやすい。
こんなつまらないことで保護者とトラブる必要はないと思っている。
書類の点検だってシステマチックにやれば、もっと簡単になるのにな、と思う。
先日、とある私立学校の事務さんとお話をしていて、学校に事務職が6名もいるという。
公立学校なんて基本1名だし、それだって教職員に関わる事務作業がほとんどだ。
「集金作業も全部担任の先生の仕事ですね。取り立てもしますよ」なんて話をしていたら、大変驚かれていた。
先生の多忙化の原因のひとつは、教育者でなくてもできることを教育者にやらせることだと思っている。