主語の小さい人は根拠をもとに話ができる人だ
当たり前にやっていることが実は凄いことだった、みたいなことってあると思う。
今日、朝活で参加者のえりちゃんが興味深いことを教えてくれた。
複雑なものを読み解く方法として、分解して理解して再定義するといいというのを読んだのだけど、それをくれちゃんはやっているんだなと思った」
そう言われてハッとした。
言われてみたらそうだ。
僕はいつも課題に対して、まずは分解して考える。
分解して考えると理解しやすくなる。
そのうえで、その意味をまとめている。
このブログだって、人間のあれこれを分解して、理解している。
んで、だから、人間ってこうだよね、人と関わるときってこうしたらいいんだよ、と再定義している。
それ、僕の日常。
頭の中で繰り返し繰り返し、分解して理解して再定義している。
変な人に会うと、「なんでこの人、こうなんだろ?」と楽しくなって、まずはその人の分解(分析)が始まる、なんて毎日の日課みたいなものだ。
んで、それは誰もがやる当たり前のことだと思っていたら、それは当たり前のことではないことを知った。
今朝、朝活で合宿企画の話をしていて、じゃあ、どこに行こうか、飛行機で来る人もいるか、新幹線の人もいるか、どちらにも都合がいいのは福岡かもしれないな、空港から近くて便も多いし、あと意外と便が多いのは那覇かな」みたいな話をしていた。
んで、それを聞いた、これまた朝活参加者のひろ子さんが「そうやってアイデアをどんどん出すの、凄いと思う」と言われ、また不思議に思った。
僕はアイデアを出したつもりがない。
自分のことをアイデアのない人間だと自覚している。
基本的に、僕が考えたことは事実を並べているに過ぎない。
・朝活参加者は全国に住んでいる。
・1カ所に集まるなら、高速バス、飛行機、新幹線もしくは自家用車である。
・空港が近く、新幹線も停まる街は、、福岡か。関空・伊丹の大阪でもいいけど。
みたいな感じ。
楽しいか、楽しくないか、みたいなことは全部捨てていて。
だって、そこは主観が伴うでしょ?
僕は事実だけで考えるので、つまらない人間だとやっぱり自覚している。
いつも事実は何で、意見は何か、とまず分解している。
人の話を聞くときも、事実は何かだけに注目している。
この人が言っていることには根拠があるか、が大事だと思っている。
先日もある人と話をしていて、これはもう明らかに間違っているな、と思うことがあった。
おそらくその話を教育関係者に話したら、まず100%の先生が「うん、それは間違ってるね」という話だった。
そんなときでも僕はその間違いを指摘しない。
こういうところは、本当に嫌な性格だと思う。
だって間違いを指摘して相手を不快にさせる必要はないし、「私は間違ってない」なんて言われて議論になったら、もう戦うしかないわけで、トータルで考えるとコスパが悪い。
「まー、この人はこう思ってるんだな」と思って無難にヘラヘラしている。
ちょっと面白いのは、こういうとき、教育論をぶつけられることも多い。
日本の教育についてこう思う、とか、最近の教員はこうだ、とか。
たとえば、野球選手の大谷選手やイチロー選手の前で、「なあ、大谷くん、イチローくん。野球ってのはさ、こうやるもんなんだよ」って僕が語り出したら、どうだろう?
かなり恥ずかしい光景である。
だが、教育ってのは面白いもので誰でも語れる。
日本の教育についてこう思う、とか、最近の教員はこうだ、なんてことは、誰でも語れることだからよろしくない。
まーでも、そんなときいつも思うのは、「根拠は何ですか?」なのである。
主語が大きいのだよ。
何かを語るとき、根拠のない人は主語が大きくなる。
根拠があると、主語は小さくなる。
事実を基にして話せる人の主語は小さい。
日本の学校はこうだ、なんて語れるほど、僕は日本の学校のすべてを知らない。
でも、僕が勤めていた学校の話なら具体的に話せる。
根拠も明らかにできる。
主語の大きい人に、具体的な話を質問すると、言葉に詰まる。
「日本の教育はこうだ」に対しては「具体的にいうと、どの部分にそう感じますか?」であり、「では、そのためにどのような取り組みが有効だとお考えですか?」と尋ねればいい。
主語の小さい人は、「私の学校でいえば、ここが問題だと思っています」と言えるし、「そのために私の学級ではこういうことをやっています」と言える。
そもそも主語の小さい人は大上段に「日本の教育」なんて語ったりしない。
目の前の子どもについて、自分自身の日々の取り組みを語れる。
そういうものは大いに根拠になる。
事実と意見があって、僕の中で分解されていく。
根拠のある話に対しては根拠で返す。
こんな事実もあるし、こんな事実もあるよ、と。
だから、理路整然として見えるんだろうな。
一方、意見に対しては「うん、そうですね」としか言いようがない。
否定もしないし肯定もしない。
それは相手の意見だから。
だから、相手の話に根拠がなくて意見だけで構成されている場合、会話が空転していることが多い。
それで相手が満足していてくれればいいが、相手が不満を抱えている場合もあって、そんなときは困ってしまう。
意見に対して僕が反論を述べると、確実に相手を凹ませてしまうからである。
なにせ相手には根拠がなく、こちらは根拠のある話で持って理詰めで責めるわけですから、相手はぐうの音も出なくなる。
ええ、ですから、「あいつは正論しか言わない」と叩かれたりもする。
うん、僕のは正論ではない。
根拠のある話である。
逆にいいますと、僕は根拠のない話をぶつけてくる人を理解するのが凄く難しいのだよ。
むしろ、「宇宙が」とか「神様が」とか、スピリチュアルなものを根拠にされた方が、根拠のない話よりも理解しやすい。
頼むから根拠を示してくれ、と思うわけです、はい。
以上が、僕という人間を分解して理解して再定義した結果です。
主語は小さく語ろう。
僕、はそう思うよ。