信頼で構築する情報共有の形

相談や報告が届くのは、相談者や報告者が「この人に相談したい」「この人に報告したい」と思う人間だ、という話を昨日、書いた。
そう考えると、厳しい人間には相談や報告が届かなくなる。
相談や報告をする者が都合よく、話をしやすい相手を選んでいるだけのような気もする。
果たして本当にそれでいいのだろうか?ということについて、今日は触れたい。
今でこそ、こんな人間ではあるけれど、先生になりたての僕は、ただただ厳しいだけの先生だった。
生徒から見て、ウザい先生の代表格のような存在で、「服装がおかしいぞ!」「廊下を走るな!」「なんだ、その言葉遣いは」と注意するばかりの先生だった。
したがって、僕に相談するような生徒はいなかった。
若くて優しい、ある種甘くて、校則違反があっても注意ができないような先生は、生徒に好まれるところがあって、さて、では、みんながそんな先生になってはいけないようにも思っていた。
僕には僕の役割があって、生徒指導の先生だから、まー、嫌われ役になるのが仕事だと思った。
別に相談してほしいとは思っていなかったので、それで構わなかったわけだ。
ある日、僕が担任している学級に授業に来ていた数学の先生が、「榑林先生、○○さん悩んでいるみたいだから話を聞いてあげたら?」と言われた。
それで僕はその○○さんと話をした。
外向きは「怖い先生」を演じていた僕だけど、普通に子どもたちの話を引き出すスキルだけはあったので、それで30分ほど話を聞いてやったら、その子は元気に教室に戻っていった。
こういう情報共有は助かるなーと思った。
相談しやすい、報告しやすい、というのは、その人の人柄もある。
そういうところに情報は集まりやすい。
けれど、全員が人柄の良い人になる必要もない気がしている。
優しい人もいれば厳しい人もいていい。
厳しい人を好む人もいるし、優しい人を好む人もいる。
それはもう、組織の中の役割のようなもので、それぞれがなんらかの役割を演じているに過ぎない。
そう考えると、問題の本質は相談や報告がなされないことではなく、相談や報告によって集まった情報が共有されていないことにあると思う。
で、その情報共有がなされない一番の原因は何かというと、リーダー間の信頼関係の希薄さである。
「この人にこれを伝えても大丈夫だろうか?」という不信感は、情報共有を妨げることにつながるわけだ。
これもまた、あり方なのかもしれない。
互いの信頼感を構築していくのは、やり方の問題ではないのだろう。
それぞれの存在をどう捉えているか、問題の本質は本当にはそこにあるように思う。




