矢印を内側に向ける人、外側に向ける人

人間には2種類の人がいる。
矢印を内側に向ける人と、それから外側に向ける人である。
僕の尊敬する社長さんが、こんな話をしてくださった。
「自分はまだまだだなって成功した今も思っている」と。
事業として「まだまだ」という意味ではない。
人間として「まだまだ」という意味である。
だから、みんなに助けられていると思っている、と感謝の弁を述べていた。
自分はまだまだの人間である。そういう自己認識があるから、自分のまだまだな部分を補ってくれる人の存在に気づける。
それで感謝の念が湧いてくる。
自分に矢印を向けられる人は、いつも心に感謝がある。
また、別の女性。
僕にとって、はるか先をいく、尊敬というか、もはや畏敬の念を抱いている方だ。
あるとき、ミーティングの話題が「あの人はこうだ、この人はこうだ」という不平不満に満ち溢れたときがあった。
みんな、矢印が外側に向けられた時間だった。
それを彼女は黙って聞いていた。
それで「どう思いますか?」と尋ねた。
「それなら、こうした方がいいわよ」というアドバイスがもらえると思っていた。
ところが、彼女が発した言葉は意外なものだった。
「私にもそういうところがないか、反省していたの」
彼女もまた、自分に矢印を向けられる人だった。
みんなは矢印を外側に向けて、「あの人のここが悪い」「あの人のあそこが悪い」と挙げ連ねていた。
それを聞きながら、「私にもそういうところがあるのではないか」と我が身を振り返っていたのである。
その話を聞いて、僕はハッとさせられた。
「自分にもそういうことがないか」と自分自身も矢印を内側に向けるきっかけをいただいたのだ。
その在り方で、人の道を示す人だった。
先日、リーダーさんたちとミーティングをしていて、「榑林さんは人のティーアップがお上手ですね」と言われた。
「すごい人」のティーアップはいくらでもできる。
けれど、僕は「普通の人」のティーアップが得意である。
「この人のここが凄い」「この人のここを見習うといい」
そんな話をよくする。
それで、こんな話をした。
そもそも万能な人間などいない。
僕も完璧ではない。
できていないことがたくさんある。
だから、自分にできないことをできる人がいると、尊敬する。
けれど、僕はその人のようになろうとは思わない。
自分にできることで精一杯貢献しようと思う。
その代わり、自分にできないことは助けてもらおうと思っている。
決して、自分が劣っているとは思わない。
けれど、万能だとも思わない。
みんなそれぞれに、尖った部分があり、欠けた部分がある。
だって、人間だもの。
だから、「あの人がこうだ、この人がこうだ」と不平不満を言うつもりもない。
だって、人間だもの。
欠けている部分があって当たり前だから。
それよりも、尖った部分にいつもフォーカスしている。
その人の良さ、強み、存在そのものの価値はなんだろう?といつも考えて人と接している。
だから、正しくは「ティーアップが得意」なわけではない。
その人の良いところをたくさん記憶に残しているだけだ。
そういった矢印をいつも自分に向けられる人たちに出会えたことが、今の僕を創り出している。
僕にだって不平不満はあって、最初はよく口にしていた。
ところが、これまた僕がとてもお世話になっている女性がいつもこう言うのだ。
「だったら、くれちゃんのやりたいようにやってもらっていいですよ」と。
「この組織のここがおかしいです」
「この組織のこのやり方はここがダメです」
そうやって不平不満を口にするたび、「変えていいですよ」と言う。
「ただし、組織ですから、必要な手続きを踏み、相談すべきところに相談し、みんなのコンセンサスを取って進めてください」
そんなわけで、僕が不平不満を口にするたび、僕は僕の仕事を増やすことになった。
そうやって組織の体制を整えてきた。
そういう経験を通して、目の前に問題が起こるたび、「では、自分には何ができるだろう?」という思考に変わっていったのだ。
矢印をいつも内側に向けられる人間に成長したと思う。
生きているとね、いろんな文句が言いたくなる。
不平不満を口にしたくなる。
矢印が外に向いている人はそこで思考がストップする。
「あの人が悪い」「この人が悪い」
だから、「今、こうなのだ!」と思考する。
一方、矢印が自分に向いている人は違う。
「今、こうなのだ!」
だから、「自分には何ができるだろう?」と思考する。
物事を動かしていけるのは矢印を内側に向けている。
そして、そこには感謝が溢れている。




