教えて喜んでるのは自己満足です。
結果ではなく学びのプロセスにフォーカスする。
その気づきは、「教える」から「教えない」への大きな転換点になりました。
「見守る」
「寄り添う」
「共感する」
若い時分には、およそ「教育技術」とは思っていなかったことが、実は大切だったということがわかってきたのです。
結果だけを求めるなら、答えを教えるのが早い。
「これはこういうものだ!」と教えればすむ。
なんの力もついてはいないのだけれど、「教えました」という事実だけが残る。
そんな仕事はペテン師の仕事だと考えていました。
大切なことは、「わからない」から「わかる」に至るプロセスです。
そこが肝心なんですね。
そして、その過程は子どもによって違います。
子どもによって違うのだから、よく見て、よく聞いて、よく感じる力が教育者には必要なんですね。
じゃあ、「教えない」って、どういうことなんでしょう。
たとえば、子どもが教科書を音読しますよね。
すると、間違えることがある。
そんなとき、僕は教えないんです。
子どもたちは僕が「教えない」ことを知っていますから。
さっと顔を上げて、僕の表情を見るんですよね。
「先生、今の間違い?」って目で合図を送ってくる。
僕はね、もうニヤニヤしているだけ。
「どう思う?」って顔をしている。
「あれっ?今のって読み間違えなの?それとも、自分の方が間違っていたの?」となります。
そこに「学び」のチャンスが生まれるんです。
で、周囲と声をかけあって確認を始める。
「そうか、ここの読みはこうなのか」という気づきにつながる。
だから、集中して他人の音読にも耳を傾けるんですね。
だけど、子どもたちだけじゃどうしても答えにたどり着けないときがあります。
「結局、今の漢字の読み方ってどうなの?」ってとき。
教えるのなんて簡単ですよ。
でも、そこは我慢なの。
教えてしまうということは子どもたちの学びの機会を奪ってしまうことだから。
そのかわりに、ヒントをあげるんです。
僕の場合は「しつもん」を届けるんです。
「その答えにたどり着くために、できることは何ですか?」ってね。
「あぁそうか!国語辞典で調べよう!」という子が出てきます。
「教科書巻末の常用漢字表で調べよう!」なんて子も出てきます。
「知ってる子を探す」なんて子も現れます。
それを聞いて、「あぁそうか!読み方がわからなかったら、そうやって調べるのね」ってことに気づく子が出てくる。
こういうこともね、教えちゃうとダメなんだな。
「自分で気づく」
これが大事。
なにごともプロセスなのね。
で、そうやって子どもたちがどんどん学んでいく。
僕は何をしているかというと、ニヤニヤしてるんです。
「いいねぇ〜。学んでるねぇ〜」って。
そういうことの繰り返し。
そうやって、だんだん子どもたちが育っていく。
「教えない」ってのは、どれだけ待てるか、なの。
教育者が試されるよね、ホント。
時間との戦いの部分もある。
単元を終わらせなきゃってのもある。
そういう葛藤の中で、それでも目の前の子どもたちの成長を一番に考えられるかってのが問われるのね。
で、ズバッと一つの発問だけで、1時間の授業が進行していったときなんてのは、してやったりなわけです。
そういう「発問」を考えることにエネルギーを注いできましたね。
「教えない」ってことは、そういう「発問」を作らなきゃいけないわけで。
それはもうね、「教える」方が楽ですよ、絶対。
もちろん、うまくいかないこともたくさんあります。
それはそれで、僕の学びにつながります。
そういう意味じゃ、子どもたちと切磋琢磨しているんですね。
ハッピーな先生になるためのしつもん
学びを創造するために心がけることは何ですか?