「教える技術」から「教えない技術」へ
ファシリテーションを学ぶ
今からもう8年ほど前。
当時の校長先生に紹介されて、ファシリテーションについて学ぶ研修会に参加しました。
大きな模造紙に、グループの考えをプロッキー(水性マーカー)で書き出し、「見える化」していく。
初めて体験したとき、衝撃を受けました。
「これは、教室を変える革命的なツールだ」と感じました。
以来、模造紙とプロッキーは、僕の授業と学級経営に欠かせないツールとなりました。
教室で、ずっとファシリテーションを用いてきました。
ずっと使い続けて気づいたことがあります。
大切なことが3つあるのです。
それは「場づくり」「自身の在り方」「発問」です。
教える人から学ばせる人へ。
これまで学校の先生は、いかに専門的な知識があるか、それを問われてきました。
ところがです。
今や専門的な知識なんてスマホを一つ忍ばせていってわからなければググればいいわけです、雑な言い方をすれば。
でね、これからの時代は学びを創造する力が、必要なんですね。
専門的な知識より、学びを創造する力です。
現代社会は刺激の多いコンテンツにあふれています。
ある意味では、刺激になれてしまった子どもたちです。
従来のような、講義形式の「知識を授ける授業」は子どもたちの目に魅力的には映りません。
つまんないんだから、飛び跳ねる子が出たって不思議じゃありません。
昭和のコンテンツで、平成の子を満足させようとしてるんです。
それなのに、愚直なまでに講義をし、集中できない子どもを叱り、怒り、管理し、統制することを仕事にしている先生が、まだまだいらっしゃいます。
まもなく人工知能の時代がやってきますね。
講義でいいのであれば、おそらく「人工知能の先生」の方が優秀です。
知識を「教える技術」しかもたない先生は淘汰されてしまう。
そんな時代は、もうそこまでやってきているのです。
これからは「教えない技術」をもった先生の時代だと思っているんです。
「教えない技術」
子どもたちの表情や空気感から理解度やモチベーションを測り、瞬時にコンテンツを組み替えて、学びの空間を創造していく。
「授業は生き物」
そう教えられた若いころ。
それなのに、決まったルーティーンで決まったことしか教えられない人の多いこと。
ライブなんです。
コンテンツを巧みに入れ替えながら、状況に合わせて作り上げていくんです。
それが授業力。
僕ね、授業中ほとんど何もしません。
子どもたちに「発問」したら、もうやることがないんです。
授業なんて、始まる前に終わってます。
それぐらい準備が大事。
で、ひとたび学びが動き出せば、やることなんてありません。
助けを求められたら、ヒントを出すぐらいです。
子どもたちの学びが加速してきたとき、僕が大切にしていること。
それは「黙ること」。
僕がね。
教えたがりがすぐに顔を出して、何か伝えようとします。
教えたいから教えるという自己満足。
そんな自身を律して黙っているのです。
苦しいですね。
苦しいですよ。
先生って「教えたがり」ですから。
でもね、黙っているんです。
子どもたちが食い入るように教科書を眺め、語り合い、ゴールに向かって学びを加速させている。
そんなとき、大人の存在ほど邪魔なものはありません。
出る幕ではないのです。
人によっては、「仕事をしていない」と感じるようです。
先生方から「なんで指導をしないのですか?」なんて尋ねられることもあります。
僕はニヤリとして尋ね返します。
「子どもたちの顔を見ていますか?」
大事なのは感性なのですね。
教室に先生はいらない
僕がこれまで磨いてきた教育技術とは「教えない技術」でした。
一方、周囲の先生たちは一生懸命「教える技術」を学んできました。
視点が違います。
教えるのではなく、学ばせるのが志事です。
先生が必死に教える。
死んだ魚の目をした子どもがただひたすらノートを書き写す。
それが授業ですか?
いかにして教えないか。
これにこだわってきました。
授業が動き出したとき、教室で一番邪魔な存在。
それは先生です。
そう考えて、授業力を磨いてまいりました。
ハッピーな子どもを育てる大人になるためのしつもん
「教えない」ために準備しておくことは何ですか?