愛にあふれた教室のつくり方
卒業の日を前に
毎年のことながら、1年も終わりに近づくと、教室に漂う空気が変わります。
別れの日が刻一刻と迫る。
悲しいムードに包まれるんですね。
今が一番いい時間。
卒業式はもうすぐです。
寒々とした体育館で行われる卒業式の練習。
小学校や中学校では、何度も何度も練習を重ねます。
16年間、卒業式で涙など見せたことのない僕ですが、不覚にも練習で涙を見せてしまいました。
「先生、泣いてましたよね?」
「バ〜カ!花粉症だよ!泣くわけないだろ〜っ!」
なんて言いながら、目を真っ赤にして。
こんなやりとりができるのも、あとわずかです。
まだ、3日もあるのに泣いてる子もいて。
声をかけたら泣いちゃう子もいて。
「俺が泣かしたみたいだろ〜!」なんて言いながら、また泣き笑い。
教室に愛があふれた状態なんですね。
それだけ思いを込めて子どもたちと接してきました。
責任を一身に背負って仕事をしてきました。
どうやら卒業式は、涙腺が決壊する予感です。
本音を届ける。
卒業アルバム。
そこにみんなでメッセージを書き合う。
すると、「先生、書いてください」なんて言う子もいる。
一人一人の顔を見ながら、自分自身に「しつもん」します。
「今、この子に伝えたいことは何だろう?」
答えはいつだって自分の内側にあって。
そこにある本音を届けるんですね。
いいことなんて書こうとしない。
「本物の音」と書いて本音。
こちらが心を響かせれば、子どもたちの心も響くのです。
木も見て、森も見る人になる♪
僕は、友だちに「書いて」って言えない子を探す。
それで「おいっ!俺に書かせろ〜!」なんて言ってメッセージを書く。
それをきっかけに、その子もみんなの輪に入っていく。
僕は子どもたちの輪には加わらない。
いつも外側にいる。
外側にいないと見えないことがたくさんあるからだ。
それで、教室でぽつんとしている子、沈んでいる子を見つけては、それとなく声をかける。
「それとなく」
これ、ポイントね。
間違っても、「どうしたの?」「何かあったの?」とか言わない。
この辺の感覚、伝わるだろうか。
子どもたちって「聴いてほしい」ってオーラを出すときがある。
それを感じてあげるだけでいい。
いつだってアンテナを立てておく。
子どもの気持ちを感じるアンテナ。
バリ3!
よく「木を見て、森を見ず」なんて言葉があるでしょう?
僕らの志事はさ、森を見ながら木も見てるんだ。
森しか見ないと、傲慢になりやすい。
木しか見ないと、不満が溜まりやすい。
だから誠に難しい。
でもでも。
それがすべてだと思うよ。
特別なことはやらなくていい。
アンテナを高くして声をかける。
あったか〜い声をかける。
それだけでうまくいくのにな。
特別な実践とか、なんにもいらんのよ。
なんか有名な先生が、あんな取り組みやこんな取り組みをしてる。
(へ〜っ、すごいね)って思う。
でも、たぶん、そんな「特別な何か」は教室にはいらない。
そういうのは「書籍映え」はするんだろうけど。
教室がうまくいっていない人はそういうのを真似する。
でも、うまくいかないわけだ。
大型書店の教育書コーナーで、深刻そうに学級経営の本を眺めている人を見ると言いたくなるね。
「そこに答えはないぞ!」って。
まず、「在り方」だから。
「在り方」を整えないで「手法」にばかり目を向けるからうまくいなかいんだ。
大切なことはもっとシンプルです。
結局すべては愛なんだ♪
思えば、今年は一度も叱らなかったな。
いつもただニコニコしていた。
それで教室はうまくいく。
子どもたちとの関係さえ整っていれば、必ずうまくいく。
森を見ながら木を見てください。
アンテナの感度を上げてください。
アンテナに引っかかった子には温かく、そしてさりげなく声をかけてください。
その繰り返しです。
一年経ったら、愛にあふれた教室になっています。
特別なことは何もいりません。
人間が人間を相手にしているのです。
そしたらもう、必要なのは「愛」だけでしょう?
こんなシンプルなことに気がつけないから、教室で苦しむ子どもがいるのです。
教師の力量ってよりは、人間的な器の問題なんだよね。
ハッピーな先生になるためのステップ
木にも森にも愛を注ぐ。