なぜ僕はこんな生き方をしているのだろう?
僕は一人の友人を亡くした
訃報のメールが送られてきたけれど、脳みそがちゃんと処理することができず、「何かの間違いだろう…」と思ってメールを閉じた。
その日、僕は初めて主催するイベントのファシリテーターだった。
登壇者の話を聞いて、質問していくのが僕の仕事だった。
でも、話がまったく入ってこない。
一通り話し終えてマイクを下ろすと、僕の脳みそはついつい彼のことを考えてしまうのである。
翌日、僕は葬儀場で泣き崩れた。
彼の幼い子どもたちは、よくわからない様子ではしゃいでいた。
奥さんの言葉が印象的だった。
「みなさんは、なんで?って思うかもしれませんけど、彼は最後の最後まで一生懸命生きてました」
若いころから、僕は仕事で顔を合わせる機会が多かった。
僕の無理難題を快く引き受けてくれるような奴で、生徒指導上の案件も自信をもって任せることができた。
生徒の受けもよく、授業にうるさい僕も一目置く授業力だったし、職場の人間関係も良好だった。
だから、新しい職場に馴染まず仕事を休んでいると聞いたときは、にわかには信じられなかった。
僕はこの友人の死をずいぶん引きづることになる。
ふとした瞬間、彼を思い出し、涙する日々が続いた。
この世界にどんなアクションを起こすか
SNSを眺めていたら、9月1日は子どもたちが最も自殺をする日だという記事を見つけた。
夏休みが終わり学校が始まる。
そんなタイミングで子どもたちが命を断つというのだ。
これは元教師としては、なんとも寂しいニュースである。
寂しいニュースではあるけれど、僕には何もすることができなかった。
そんな折、SNS上ではいろんな大人たちが「子どもたち、命を大切にしよう」「子ども、自ら命を断つなんてダメだ」と訴えていた。
僕はそれを冷めた目線で眺めていた。
一体、そのメッセージを誰が読むのだろう?
今、死にたいほど辛い状況の子どもたちが、見ず知らずの大人のSNS投稿に目を通すだろうか。
そんなの自己満足じゃないか。
そんな自分を気持ちよくするためのマスターベーションじゃないか。
そう憤って、ふと我が身を振り返り、「お前だってそうじゃねーか」と呟いてみる。
人の行動に悪態をついて、自分は何もしない。
そんなのはYahoo!のコメント欄に便所の落書きのような誹謗中傷を書き殴っている人間と変わらないではないか。
それで僕はクラウドファンディングをして、映画上映会をすることにした。
夏休み、「生まれる」をテーマに命の尊さを扱う映画に子どもたちを無料招待する。
そんな企画である。
結局、いろんな紆余曲折があって、映画上映会は愛知県内8会場を2週間で回るツアーになった。
命を断つ人と、その周辺にいる人
僕の活動を知った刈谷市から、市の自殺対策委員会のメンバーになってほしいという打診をいただいた。
僕は決して「命」の専門家ではない。
それでも依頼されたことはご縁であるから引き受けることにした。
自殺者というのは、働き盛りの世代と高齢者に多いのだという。
企業の取り組みや実際に起こった事件を知ることは、僕のその後の活動に大きな影響を与えることになったのは言うまでもないことである。
会議がわりと形式的に終わる中で、僕は核心をついた話をする。
それでしばしば委員長の方と話が興味深い方向に進んだりした。
この委員長というのが、市内でも有名な精神科のお医者様で、なかなかの人物である。
その先生がした興味深い話をシェアしたい。
「精神科は唯一、患者が病院で死なないんです」
病気であれ事故であれ、病院では多くの方が亡くなる。
医師は最後の最後まで手を尽くすが、その甲斐なく助からない命は多い。
けれど、精神科では病院にいる間、患者は亡くならないと言う。
「これでいい、もう大丈夫だ、そう思って退院した翌日、命を断つことも多いんです」
「治った」と判断した自分を責める。
そんなことの繰り返しだったと回想していた。
あれはそう。
ちょうど、会議でゲートキーパーを増やそうという件が話題になったときだ。
ゲートキーパーというのは、「命を断ちたい」と悩む人の話を聞き、思いとどまらせる、そんな役割の人である。
そういう人をたくさん育成したいと考えていた。
僕はそれに異論を唱えた。
助けたいと思っても助からない命がある。
その日は思いとどまっても状況が変わらないのだから明日は命を断つかもしれない。
きっとゲートキーパーは、自身を責めるだろう。
その心のケアをする体制を作らずに、ケアする人だけを育てるのは、危険ではないか。
そんな話をした。
僕も友人を亡くしたとき、ずいぶん自分を責め立てた。
何かできたのではないか。
自分が何かをしたら、彼は生きていたのではないか。
人の生きに死に関わることは、とても重たいことなのである。
先日、お笑い芸人の方が自ら命を断つというニュースが日本中を悲しみに包んだ。
明るく朗らかな生前の姿が、テレビやネットで何度も取り上げられた。
そんなとき、ある精神科医の先生の話を見つけた。
躁鬱病というのは、躁状態と鬱状態を繰り返す。
人はよく鬱状態が良くない状態だと勘違いしてしまう。
ところが、鬱状態というのは生きる気力もない代わりに死ぬ気力もないらしい。
家で一人引きこもり、何も手につかず、塞ぎ込む。
そんな状態なのだそうだ。
だから、気をつけなければならないのは躁状態なのだと言う。
重い鬱状態を抜け出し、気分が晴れやかになり、今なら何でもできるような気がする。
いわば万能感のようなものを味わい、その勢いに任せて命を断ってしまう。
この話を読んで、前述の病院の先生の話と重なったのである。
もう良いと思ったそのとき、悲しい知らせが届く。
そんなことがあるのだと言う。
予兆を掴んで、早く手を打つ
僕もこれまで学校現場で心を病んでしまう大人を何度も目の当たりにしてきた。
時間をかけて復職を試みるも、なかなかうまくいかない。
そんな姿も見てきた。
僕の中の一つの結論は、そうなる前に手を打つ必要があるということである。
心が病んでから、何か手を考えることは難しい。
それよりも、そうなる前にできることがたくさんあるはずなのだ。
学校には不登校の生徒が多くいる。
学校に馴染めない子もいるし、何らかの事情で途中から登校できなくなる子もいる。
前者はともかくとして、後者の子どもたちは、不登校になる前に何らかの手を打てるのではないかと考えている。
不登校になってから登校を促すのでは遅い。
そうなる前に、その予兆を掴み、そうならないようにしていくのだ。
心に関わることはすべて同じだと思っている。
症状が出てからでは遅い。
病気で言えば、感染はしているけれど、発症はしていない。
その間にいかにして、ケアするかが大事なのである。
予兆を見つけて話を聞いてあげるだけでもいい。
原因がはっきりしているなら、取り除いてあげることもできるだろう。
警察は事件が起きそうな状態では動かず、事件が起きて被害届が提出されて初めて動く。
人間の心のケアも病気になって初めてケアしようとする。
でも、それでは遅いのである。
予兆をいかに掴むか。
そして、早めに手立てを打てるか。
症状が出る前に対応することが大切だ。
職場で言えば、「仕事、辞めたいです」と言われる前に「仕事、辛くないか?」と聞いてあげられるかポイントなのである。
もう二度と悲しみに暮れる子どもたちを生み出さないために
僕らは今、アプリを開発している。
ユーザーには毎日、ログイン時に「心の状態」を知るための「質問」をする。
それらのテータをもとに一人ひとりの日々の心の状態を可視化し、リーダーに知らせる。
リーダーだって毎日毎日、そんなものは眺めていられない。
だから、ある一定の条件を満たし、危険領域に達するとアラートを出す。
ケアをすべきタイミングを知らせるのである。
心理分析の結果も表示し、具体的な手立てを示していく。
誰が声を掛ければ良いか。
どのように声を掛ければ良いか。
僕らはユーザーに、その答えを伝えていく。
今、世の中はみんな忙しい。
たぶん日々現場で悪戦苦闘している人たちは、他者の心のケアまでしていく余裕はない。
だから、僕らのアプリはそのサポートをする。
あの日、僕は友人の葬儀場で、わけもわからずはしゃぎ回る子どもたちを眺めていた。
上のお兄ちゃんは状況をわかっていたのだろう。
涙こそ流さないものの、母親の隣にいて上着の裾を掴んで離さなかった。
僕はその姿を忘れない。
もう二度と、そんな悲しい思いをする子どもたちをつくってはいけないのだ。
広がるのは、そこに思いがあるから
先日、沖縄でセミナーを開催した。
たくさんの経営者とたくさんの教育者が参加してくれた。
懇親会もお開きになり、二次会のスナックで、ある社長さんと話をした。
とても陽気な方で散々酔っ払っていたけれど、僕と話をしていて真剣な表情に変わった。
「僕は誕生日でうんぬんかんぬん、みたいなものは信用していないんだ」と言う。
それで、沖縄にあるSTRの勉強会、MALには入らなかったそうだ。
「でもね、先生の話を聞いて、応援したくなったよ」
そう言って下さった。
アプリを広げていく新しい事業にお力を貸してくださるのだそうだ。
僕はこれまでずっと、STRというコンテンツに価値があって、みんなが僕のところに集まってくれていると思っていた。
でも、ある人が言うのだ。
「先生じゃなかったら学びに行かなかったよ」
STRは確かに面白いけれど、じゃあ、そのお金を払ってまで学びたいかと言うと、少なくとも私はそうでもないかな、と笑った。
「でも、先生の話が聞きたいから愛知県までわざわざ行くんだよ」と今度は一転、真剣な表情で話してくれたのだった。
ある人は言う。
「たしかに再受講は無料かもしれないけど、無料だからみんなが来るわけじゃないでしょ?だって、他の人のところにそんなに再受講の人、来てる?」
僕は首を振るしかなかった。
「くれちゃんの話はね、何度も何度も聞きたいと思う、何かがあるの。だから、みんなが集まるんだよ。それに、集まってくるみんなに会いたいってものあるしね」
と笑った。
ある人は、僕の講座が何の講座かわからずに受講を申し込んできた。
「今日は何の講座かはわかりませんが、ここに来ればくれちゃんから学べると知ったので申し込みました」
そんな自己紹介をして、僕もみんなも驚いてしまった。
SNSではどうしても書き振りが自信満々に見えてしまう。
嫌いな人にはトコトン嫌われる。
そんなタイプだ。
でも、本当は自信なんてカケラもない。
毎日必死にもがいている。
でも、「思い」という種を撒き続けたら、いろんなところから芽が出始めている。
応援してくれる人がたくさんいる。
他者に寛容な社会をつくりたい
殺伐とした社会になった。
誰もが心の許容量を減らしていて、自分の意に反すれば、すぐに攻撃し炎上する。
インターネットという名の監視社会は、異物を発見し一斉攻撃をすると、一気に凶暴化し始める。
誹謗中傷のニュースは後を絶たない。
他者に不寛容な社会になった。
自分の考えと異なる人間は、間違った人間であるという誤解が対立構造を生む。
ただ考え方が違うだけなのに、それを相手は間違った考え方をしていると捉えてしまうのだ。
いや、存在そのものを否定してしまう。
今日も僕はそんな危うい社会の中で、炎上するリスクを背負って発信しているのである。
だから、他者に寛容な社会を作っていきたい。
異なる意見を受け止める度量の大きな人を育てたい。
僕はそんな思いで本を書き、そんな思いでアプリを作り、そんな思いでセミナーをする。
人間の悩みの9割は人間関係に起因するのだそうだ。
人の世で、人が人に苦しむというのは、皮肉なものである。
僕はその鍵は、「理解」にあると思っている。
他者を理解し、自分を理解すること。
自分とこの人は何が同じで、何が違うのかを理解していくことが大事なのだ。
異なる意見を対立させるのではなく、異なる意見にはたくさんの学びが隠されているのである。
共通点を見つけることで協力できることもあるだろう。
人が減っていく社会の中で、人同士が対立していてはいけない。
他者に寛容な社会をつくるとき、それはそれぞれの良さが生かされる社会に変わっているのだと思っている。
僕は今、そんなことを考えている。