教養とは何か?〜知識ベース社会と経験ベース社会
京都大学総長の山極寿一先生の本が大好きで、よく読んでいます。
霊長類研究の第一人者である山極先生は、ゴリラの研究のフィールドワークのため、アフリカの奥地へと足を踏み入れます。
そんなアフリカの原生林を案内してくれる現地の人と仲良くなるエピソードが著書の中でよく語られているのですが、非常に興味深いお話でしたので、シェアしたいと思います。
そのような村の人たちというのは、決して識字率が高くないのだそうです。
本が読めないんですね。
では、彼らが教養がないのかというと、そうではないと先生は語ります。
文字が読めないのに、教養が高い。
これはどういうことでしょうか。
知識があることを教養と見なす僕らと対比して、彼らというのは「経験」を教養と見なすそうなのです。
「あのときはこんな経験をしたから、君もやった方がいい」
「いや、自分はこんな話を聞いた。だから、それはやめておいた方がいい」
互いにそんなやりとりをするのだとか。
経験してきたこと。
この場合、それは体験したことだけでなく、見たことや聞いたことも含まれます。
そういったものの蓄積を教養とするわけです。
ですから、自然と年長者が敬われる社会になります。
一方、僕らの社会はどうでしょうか?
「どれだけ知っているか」という知識こそを教養としています。
インターネットという、一瞬で「答え」を導き出すツールを手に入れてしまった僕らは、知識ベースで言うと、若い人の「検索力」が年長者の培った「知識」を軽く乗り越えることができるようになってしまいました。
年長者がどれだけ声高らかに「我を敬え」と叫んだところで、「敬うべきポイント」を見つけづらい世の中になってしまったのです。
「おじさん、それ、古いっすよ!」という社会です。
そんなところから「老害」という言葉も生まれたのだろうと思われます。
さて、知識ベースの社会では、成功法則が重宝されます。
こうすればうまくいく!という方法だけが伝播していきます。
昨今、起業やら複業・副業がブームです。
ブームというか、SNSで煽られ続けています。
その裏に、離職して起業に失敗し、その日暮らしの生活をしている人もいるでしょう。
知識ベースで語られると、僕らは夢を見ます。
自分だけは成功するのではないか、という錯覚を覚えます。
言葉で語られる成功法則は、よくよくその頭で考えて、情報を吟味する必要があるでしょう。
一方で、経験ベースの社会では失敗法則にこそ価値があると考えられます。
一歩選択を間違えたら命を失うかもしれない社会では、過去の失敗例を共有することで、同じ轍を踏まぬようにするわけです。
「あそこの森は危ない」
「あの植物は食べたら死ぬ」
そんな情報は書籍にあるわけではなく、誰かが経験してきたことで語り継がれるわけです。
私たちは今、知識ベースの社会を生きています。
「経験してきたこと」よりも「知っていること」を重視します。
ですから、すぐに「エビデンスはありますか?」と問うてしまいます。
あそこの森が危ないことにエビデンスはありません。
生きて帰ってくる人もいるでしょうし、二度と帰ってこない人もいるでしょう。
誰かから見たら「危ない森」であり、誰かから見れば「安全な森」なのです。
だからこそ、議論の余地があり、対話が生まれ、教養を深め合う機会に恵まれる社会です。
逆に、僕らの社会には、その機会はなく、つまりは互いが互いの言葉に耳を傾けることはなく、衝突と対立を繰り返します。
当然ですが、僕らにとっての教養は、深まることがありません。
書籍を読み、知識を広げ、それで終わりです。
このように考えると、人間を豊にする上で大切なことは、「経験」であることが理解できるでしょう。
僕が上梓する『自走する組織の作り方 統率力不要のリーダー論』(青山ライフ出版)は、完全に経験ベースで書かれた本です。
ですから、エビデンスはありません。
僕が経験してきたことをもとに、「では、あなたの周りはどうですか?」と問うているのです。
この本に答えは用意していません。
読んでいるあなたがどんな答えを持つか。
それこそが重要なのではないでしょうか。
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