個性的に生きるってどういうこと?
TikTokでは「くれちゃん先生」として活動している僕は、時折ライブ配信をする。
ライブ配信をするとたくさんの方が視聴してくれて、いろんな質問が飛んでくる。
それは「現役の学校の先生」だったり、「学校の先生の卵」だったり、「お母さん」だったり。
いろんな立場で質問をしてくれるんだけど、僕は全力でお答えしている。
すると、ある人からこんなコメントが届いた。
「どうしてそんなにも人を励まし続けることができるのですか?」
僕はそれを読んで驚いた。
だって、僕は励ますつもりなんて、カケラもなかったからである。
それでこんな話をした。
「目の前の人を幸せにするために何ができるだろう?」
これは僕の師匠の言葉なのだけど、僕はいつもこのことだけを頭の片隅に置いているんだ。
たとえ目の前の人がSNS上の顔も名前も知らない「誰か」であっても、僕はその人が幸せになればいいなと思って接している。
僕のことが嫌いな人も、僕を攻撃してくる人であっても、その人が幸せになればいいなと思って関わっている。
だから、質問が来ると最初に考えるのは、その答えではない。
その人がどんな気持ちで質問してきたか、に思いを馳せるのだ。
そのうえで、どんな言葉がその人のエネルギーになるかな?を考えるのである。
僕の言葉が励ましの言葉に聞こえるとは意外だった。
言葉は意志伝達の手段である。
けれど、人となりをも伝えてしまう。
この夏、僕は『自走する組織の作り方 統率力不要のリーダー論』という本を書いた。
これを読んでくれた人が、「くれちゃんは愛のある優しい先生だ」と言う。
誤解である。
僕は決して優しい先生ではない。
なにせ、ずっと生徒指導の先生だったのだから。
それに僕は一言も「僕は優しい先生だ」とは書いていない。
それでも、読んだ人が、「くれちゃんは愛のある優しい先生だ」と言ってくれるのは面白いことだな、と思っている。
「個性」という言葉があって、よく誤解されるのだけど。
たとえば若者が髪を金色に染めて、「個性的な髪型ですね」なんてやっていたりする。
それは染めたら誰でもなれる髪色であって、そんなものは個性ではない。
本来の「個性」はその人がその人らしく生きていたら、みんなが自然にその印象を受けるものだと考えている。
僕は僕らしく生きているとき、優しいのである。
それは髪を金色に染めるように、意識して演出するものではない。
そのままを表現したら、優しく見えてしまうのである。
本人は優しくしたつもりはないのに、優しく見えてしまうのだ。
だから、たぶん、個性的になろうとしないことが、一番の個性の発揮の仕方なんだろうな、と思っている。