なぜ上司の武勇伝はウザいのか
自分のことを「スゴい」と言う先生にスゴい先生はいませんでした。これはとても不思議なことでした。
これまで出会った先生方の中には尊敬できる人がたくさんいました。(この先生はスゴいなぁ…)と思って話を聞いてみる。
昔はこんなことがあったよ、あんなことがあったよといろんな話をしてくれる。「いっぱい苦労したなぁ…」と思い出話に花が咲く。
それがまったく嫌味ではなく、いつまでも話を聞いていたい。そんな人でした。
一方で、「昔はスゴかったんだ」と武勇伝を語り、部下に疎まれる人もいます。(あぁ、またその話か…)とみんながうんざりしてしまう、そんな人です。
この違いはなんなのでしょうか。
同じように過去を回想していても、一方はみんなが耳を傾け、一方はみんなが耳を閉じてしまう。
その秘密は話し手の自己肯定感にありました。
前者は自分自身で「今の自分」を肯定的に捉えていますから、自分で自分のことをスゴいと表現する必要がありません。不幸自慢の話と同じように、自分で自分を満たすことができていれば、それで十分なのです。
ですが、武勇伝を語ってしまう上司は、「今の自分」を肯定的に捉えることができていません。ですから、自分で自分がいかに素晴らしいかを語らなければ、立っていられないのです。
不幸自慢にしろ、自慢話にしろ、根っこにあるのは同じです。
ある人が、みんなの前でいかに自分が幸せかを語っていたのだそう。それがずっと続くものだから、みんなはほとほと嫌気がさしていました。
「ずっと自分は幸せだ、幸せだって言ってて、なんだかそれを聞いていて疲れてしまったわ」
と呟いたので
「それはきっと幸せを感じられてないんだよ」
と伝えました。
健康な人は自分が健康な状態には気付きません。
健康は失ってはじめて気づくものです。
同じように、大切な人もなくして初めて、あの人はかけがえのない人だったと気づくのは世の常です。
幸せも同じ。幸せな人は自分が幸せであることにはなかなか気がつけませんし、幸せであることに気付いたとしても、わざわざ人にそれを自慢気に話すこともしません。
周りの人に自慢話に聞こえてしまうのは、やはりどこかで心が満たされていない状態だからです。
そして、自慢話であれば他者の賞賛で、不幸自慢であれば他者の憐れみでもって、自らの心のグラスを満たそうとしているのです。
そんなときは他者のエネルギーで、自分の心のグラスを満たすわけですから、相手から奪う行為です。それはウザがられるのも無理がありません。
武勇伝が悪いのではありません。武勇伝を語るのは、今の自分を肯定できていない証拠なのです。心が満たされないまま、他者の賞賛で自らを癒そうとする行為が、周りの人からウザがられる原因です。
自分の心を満たすことができるのは、この世でただ一人、自分自身しかおりません。自慢話をしてみても不幸自慢をしてみても、それは一時凌ぎであって、心が満たされることはないのです。
では、どうしたら良いかというと、自分に花丸をつけてあげる習慣をつくることです。
「うまくいってることは何か」
「できていることは何か」
自問自答してその答えを書き出していく。それだけでも、自分の心は満たされていきます。
僕らはついつい「うまくいっていないこと」や「できていないこと」に目が行きがちです。マイナスなところに目が行けば行くほど、自分のことを肯定できなくなります。
不思議なもので、自分を肯定できないわけですから、不幸自慢に陥りそうですが、そうはならないのですね。心のバランスを取るために、「俺はスゴいんだ」「昔はスゴかったんだ」という話をしてしまうわけです。
そもそも武勇伝を語るのは、今の自分を肯定できていない証拠とも言えます。