なぜ偏差値の高い大学よりも、☆1つのラーメン屋に行った方が幸せになれるのか
「偏差値の高い大学に入ったら幸せになれる」とか「お金持ちになったら幸せになる」と信じている人は多い。
では、それは真実だろうか?
イェール大学の助教授、成田悠輔先生が興味深い話をしていたのでシェアしたい。
高卒の人の収入と大卒の人の収入を比較した場合、やはり高卒の人よりも大卒の人の方が平均すると収入が高いらしい。
ところが、大学の偏差値で比較した場合、偏差値が高い大学と偏差値が低い大学では、それほど収入は変わらないことがデータで明らかにされているそうだ。
だから、そもそも勉強がすごく得意な人は偏差値の高い大学に行けばいいし、普通の成績の子は偏差値が真ん中ぐらいの大学に行けばいい。
必死に勉強して、何年も浪人して偏差値の高い学校を目指すのはコスパが悪い。
それほど収入は変わらないのだよ、という話だった。
ただ、この話には続きがあって。
そもそも、「偏差値の高い大学に入ったら幸せになれるか?」とか「お金持ちになったら幸せになるか?」という問いをもっている時点で、その人は今の自分を幸福には感じていないわけで。
「今、自分は幸せだ」と感じている人は、「偏差値が高い方が…」とか「お金持ちの方が…」とか、そもそも考えないという。
言われてみればその通りである。
この「しつもん」は、不幸せなしつもんだ。
そもそも「幸せ」を測る指標を見つけることは難しい。
幸せは個人内評価だからだ。
お金がたくさんあって、社会的にも成功していても、自分のことを不幸せだと思っている人がいるし、毎日カップラーメンを食べていても「あぁ、美味しいなぁ…幸せだなぁ」と思っている人もいる。
つまり、幸せは「何か」になったり「何か」を得たりして手に入れるものではなく、「感じられるか否か」という話なのである。
以前、ある地方に講演に出かけたときのこと。
始まるまで時間があったので、いわゆるご当地ラーメンを食べることにした。
それでネットのランキングサイトで「ラーメン屋さん」を検索したところ、☆1つのラーメン屋さんを発見したのである。
ご当地ラーメンで☆1つ。
コメント欄は酷評だらけ。
そんなラーメン屋さんはなかなか出会えない。
幸い講演会場の近くだったこともあり、僕はその「☆1つのラーメン屋さん」に向かうことにした。
注文するのは「ラーメン」1択である。
お目当ては「☆1つのラーメン」しかない。
腰が90°に折れ曲がった老婆が愛想なく注文を取ると、中から爺さんの罵声が飛んでくる。
「なぜ俺の注文で喧嘩になる?」と思ったけど、どうやら爺さんの観ているテレビが良いところらしい。
それで、ずいぶん待たされて、ようやくラーメンが出てきた。
腰が90°に折れ曲がった老婆の椀を握った親指がスープに浸かり、画面もスープに浸かりそうでヒヤヒヤする。
そう、コメント欄に書いてあった通りだ。
「店員さんの指がスープに浸かっている」
そう!これ、レビュー通りなのだ。
僕の興奮はピークに達した。
いざ、実食。
うん、確かに不味い。
スープはぬるく(だから、指が入れられる)、麺は伸びている。
☆1つである。
評価に偽りなしである。
あなたは人生の中で「☆1つのラーメン」を食べたことがあるだろうか?
僕はある。
君は人生の半分、損してるよ。
そんな話を講演会の主催者さんに話したら、「よく入る勇気がありましたね」と驚かれた。
どうやらそういうものらしい。
普通の人は☆1つのラーメン屋には入らないんだって。
びっくりだよね。
☆4.5のラーメンはきっと美味しいけれど、そこに新たな発見や語れる経験にはならない。
☆1という名のエンターテイメントは、のちのち語れる題材でしたかない。
「なんだ、このラーメンは!」と怒る人もいるだろう。
「ウケる!!ホントに☆1つだな」という人もいるだろう。
結局のところ、起きた出来事を楽しめるかどうかで、幸福感は変わるのではないだろうか。
成田先生は、さらにこんな話をしている。
東大を出たから幸せになり、お金があるから幸せになっていると僕らは錯覚しているけれど、そもそもそこには何の因果関係はなく。
そもそもこの世界には「幸せになれる人」と「幸せになれない人」がいて、「幸せになれる人」がたまたま東大に入ったり、お金が手に入ったりしているだけかもしれない、と。
幸せは「何か」になったり「何か」を得たりして手に入れるものではない。
そもそも「どうしたら幸せになれるか」を考えている時点で幸せではない。
うん、ちょっとだけ一休さんになったつもりで、このことについて考えてみたところ、「☆1つのラーメンに喜べるメンタリティ」を手に入れるしかないな、と思った次第である。
ちなみに、☆1つのホテルに泊まったことがあるが、異世界の何かと出会えそうで、一晩中怖かったことがあるので合わせて伝えておく。