そもそもなんのために学んでるの?という根本的な問題
コロナ禍以前の教育現場では、「アクティブラーニング」だとか「主体的な学び」だとか、とにかく「みんなで話し合う」的な活動がチヤホヤされてきた。
従来の「講義型」の授業は時代遅れで、みんなで活発に討議し合うのがイマドキ、みたいに語れていた。
ところが、コロナを契機にして、オンライン授業が行われると、「あれ?こっちの方が便利じゃね?」という人たちが現れ始めた。
「みんなで話し合うとか、非効率じゃないですか?」という人たちだ。
コロナはいろんなことを「浮き彫り」にしちゃった。
たとえば、リモートワークが生まれて、「あれ?出勤する意義って何?」みたいな気づきを与えちゃったし、それによって「生産性の悪い人間」も明らかにしてしまった。
お勉強の面でも、「成績をよくする」という点でいえば、みんなで話し合うよりも問題集をひたすら解いていた方が、はるかに効率よく勉強できるよね、と気づいてしまった。
となると、今度は「勉強って何?」という課題にぶち当たることになる。
「勉強をする」ということは「良い点数を取ること」なのだろうか、という課題である。
もしも仮に、「勉強」の目的を「良い点数を取ること」だとすると、学校の勉強というのは非常に効率が悪いことになる。
逆に言えば、「勉強」とは何かを明確にすることが、先に必要であって、そのために学習内容は組み立てられるべきなんじゃないか、と思ったわけだ。
で、そう考えると、「あれ?テストとか要らなくね?」とか「そもそも成績表とか要らなくね?」とかにもなるかもしれない。
まー、受験制度と学校の学習成績がガッツリ結びついている現状を考えると、「良い点数を取ること」が勉強の目的になってしまい、それだと結局問題集解きまくってるのが一番効率が良いという話になってしまう。
さあ、僕らは何のために学び、何のために教えるのか、という根本的なところに立ち返る必要があるのだと思う。