その感覚、錯覚かもしれませんよ、という話
ワイングラスにはいろんな形状がある。
ワインの種類によって、異なるワイングラスを使うことは良く知られている。
ところが、ワイングラスによって味が変わることはないそうだ。
理論上、ワイングラスが変わることで、ワインの成分が変化するわけではないからだ。
しかし、ワイングラスの形状によって、香りや味の感じ方が変わるのだそうだ。
味は変わらないけれど、香りや味の感じ方が変わる。
味は変わらないけれど、味の感じ方が変わる。
…なんかややこしい!!
あるコーヒーショップでの実験である。
サービスのコーヒーを紙コップで出したり、高級なコーヒーカップで出したりした。
お客さんにコーヒーについてのアンケートを行った。
すると、紙コップで出したコーヒーよりも、高級なコーヒーカップで出したコーヒーの方が、高級なコーヒー豆を使っていると感じた割合が多かったらしい。
ちなみに、紙コップのコーヒーも高級コーヒーカップのコーヒーも同じコーヒー豆である。
あはは、人間なんてそんなものさ。
目隠しをして食べ物を食べると、何の味だかわからなくなる。
あれも不思議だと思う。
サッカーを見ていて思うのだけど、たとえば贔屓にしているチームがあるとして、そのチームの選手がファールをしたとする。
僕の目には、審判の判定は厳しいように映る。
ところが、対戦相手のチームを応援している人の目には、当然の反則プレーに見える。
これは不思議なことだ。
同じ場面を見ているのに、そのように見えてしまうのだ。
決してどちらかが嘘をついているわけではない。
見えてしまうのである。
僕たちはそういう錯覚の中で暮らしている。
あの人はヒドい人だ、と刷り込まれると、やることなすこと悪事に見えてしまう。
尊敬する人のすることは、すべてが素晴らしいことに思える。
大好きな女性のすることは、たとえそれが屁の類いであっても可愛く聞こえる。
憎らしい人の歌声は騒音でしかない。
人間の感覚というものは実に面白くできている。
その点でいうと、親が我が子を「うちの子に限って」と思うのは自然なことである。
そう見えるのだから、仕方がないことだ。
我が子を客観的に見られる親など、ほぼいないのではないか。
僕らはそういう錯覚の中で生きていて、錯覚に気づかず生きている人と共に暮らしている。
人と人がすれ違うのは必然のことであり、このわかり合えない関係をいかにわかり合おうとするかが、人間の課題なのだと僕は思う。