周囲を威嚇する粗暴な子の正体

すぐに暴力を振るう子がいる。
怖い見た目をして周囲を威嚇する人がいる。
汚い言葉遣いで、さも自分を強く見せようとする者もいる。
そういった人たちの正体はとても弱い人である。
弱くて自信がない。
だからこそ、自分を強く見せようとする。
昔、とても器の大きい上司がいた。
その人が言うのだ、「引き分けでいいんだよ」と。
生徒と生徒が争って口論になっていても、白黒はっきりさせることはしない。
「引き分けでいい」と言う。
白黒つければ遺恨が残る。
引き分けでノーサイド。
それが美しいのだ。
こういうことが言える人は強い人だと思う。
勝たなくてもいいのだ。
ご本人は引き分けはおろか、負けを選ぶことすらできる大人物である。
勝たないことを許容できるし、勝ちを譲って負けてあげることもできるのはすごいことだ。
若い人と議論になっても、じっくり話を聞いてやり、「じゃあ、やってごらんなさい」と道を譲ることができる。
なんて大きな人だろうと思う。
だから、自然と人が集まってくる。
信頼されるのである。
器が大きい人のところに人は集まるし、小さな器の人からは人が離れていく。
いつの世もそんなものだ。
さて、生きていると、衝突することがある。
人間だから仕方がない。
そんなとき、弱き者は刀を自分から納めることができない。
段取りをつけてあげて、刀を納めるチャンスを作ってあげているのに、納めることができない。
心が弱く、自信がないから、刀を下ろすことができないのである。
強き者は自分の刀を抜くことすらしない。
相手が刀を収められるように譲ってあげるのである。
そういう人は自信があるのだろうと思う。
これまでいろんな子どもたちに出会ってきたし、いろんな大人たちに出会ってきた。
自尊感情の低い者ほど粗暴で、他者を威嚇する装いをし、汚い言葉遣いになる。
自分は「強いのだぞ」と外に示そうとする。
そういう姿は子どもたちの中でよく見かけるが、中には大人の中にもそんな人がいて、そうなってくるとちょっと滑稽だったりする。
「いい歳こいて」 になる。
話を子どもに戻すと、そういう子どもたちの話をよくよく聞いてやり、まず信頼してみることだと思う。
そうすると、彼ら彼女らの自尊感情は、少しずつ芯を取り戻していく。
次第に彼ら彼女らは暴力を振るわなくなるし、対話ができるようになる。
これを僕は「橋を架ける」と表現している。
人間関係を作ることが第一である。
人間は知的な生き物であり、きちんと対話ができる。
弱き者は自分の思いを丁寧に伝えることができず、それで暴力に訴えたり、汚い言葉で他者を傷つけたりする。
その極みが「いじめ」のような行為だ。
弱き者は、自分よりもさらに弱い者を叩こうとする。
そうすることで、自分の小さな自尊感情を満たそうと試みる。
ところが、残念なことにそのような歪んだ優越感で心のグラスを満たすことはできない。
それでどんどん惨めな自分が顔を出す。
世の中にはやたら抗戦的な人というのがいる。
やたら「あいつはダメだ」「こいつはダメだ」と口にしてみたりする。
そんな人を見るたび、「なんて心の弱い人だろうか」と思う。
くれぐれも注意しておきたいのは、そういう人を恐れ崇めてはならない。
それは彼らをより孤独にする行為である。
なぜなら、彼らはその小さな自尊感情(という幻想)を守るために、さらなる虚勢を張らねばならなくなるからだ。
本当に必要なことは癒しなのだ。
ただ愛されたいだけなのに、それを言葉にできないのである。
それこそが弱さである。
僕はそんな子どもたちにたくさん出会ってきた。
だから、そういう子こそ、愛情を必要としているのだ。
「お前はダメだ」と罵る前に、「君は僕にとって大切な人だ」と伝えてあげる。
まず失われた自尊感情を取り戻させることから始めてみてはどうだろう?
