作る側と批判する側は、どちらがクリエイティブかという単純な話
会員制サービス「ねこホーダイ」が炎上し、サービスが停止した。
野良猫を保護する新しいサービスだったが、定額制で「猫を借りる」ということで、「命をなんだと思っているんだ?」という人たちの批判が殺到したわけだ。
この手の事案が起きるたび、僕はモヤモヤっとした気持ちになる。
このサービスを作った人たち、きっと「野良猫は金になるぜ!イェーイ!」と思って作ったわけではないと思う。
プロダクトを生み出すことは恐ろしく時間もお金もかかる作業だ。
そういったことは「お金」だけで動けるものではない。
そこに志がなければ成し遂げることが不可能だ。
きっと彼ら彼女らは、野良猫の問題を解消する方法を必死になって考えたのだろう。
猫を保護するのにはお金がかかる。
それをどう解決すればいいか。
猫と社会をどう繋ぐかを必死になって考えた結果が「ねこホーダイ」だったわけだ。
だが、このサービスは猫を愛する人たちから批判の的となってしまった。
いつも思うのは、「では、どうするのか?」という問いに対する答えを君は持っているかい?ということなのだ。
万能なサービスなんてない。
この世にあるすべての事象には光もあれば影もある。
このサービスに救われる人や猫がいる一方で、傷つく人や猫がいる可能性は否定しない。
影にスポットを当てれば、すべての事業は止まる。
光にスポットを当てて前に進むことの方が大事だと僕は思う。
寒くなると電車に飛び込む人がいる。
電車なんかが走っているから、そこに飛び込む人が出て、命を落とすのだ。
電車はすべて止めてしまおう!!…とはならない。
保護猫の問題があって、猫がどんどん増えているらしい。
その問題を解決する何かを持っているだろうか。
思案に思案を重ねて「ねこホーダイ」を考えたんだろうと思う。
僕が表現したいのは、そのサービスの是非ではない。
この問題を解決する何かがあるか?を考えた上で、もっと良い代案があるうえで批判しているか、ということである。
何もまったく新しいサービスを求めているわけではない。
この「ねこホーダイ」というサービスが、「もっとこうしたら良くなるんじゃないか」「こうすれば問題が解決するんじゃないか」という議論のもと、さらに良いサービスになっていけばいいと思う。
それが頭ごなしに「批判」「批判」「批判」「批判」「批判」で潰すだけでは何もクリエイティブなものは生まれなくなる。
こういうことが起きてしまうと、「とりあえず猫の件をビジネスにするのは難しいよね」となる。
ビジネスにすることを批判する人は多いが、ビジネスにしてしまうのが最もスピーディーに物事を解決する方向に進められるのは事実である。
批判からは何も生まれない。
僕は今、そんなことを考えている。