便利さの挙げ句の果てで、僕らはもっとバカになる
人間は便利さを手に入れるとバカになる。
基本的に「便利」というのは、それが生まれる以前には不便ではなかったことが、それを手に入れてしまったが故に、「ないと不便」になり、僕らは「便利」を手にしたと錯覚する。
たとえば、携帯電話がなかった時代には、家族や友人の電話番号を記憶していた。
覚えきれないものは電話帳に書いていた。
それを「不便」とは思っていなかった。
ところが、ケータイが出現したことで、僕らは電話番号を覚える必要がなくなった。
すると、僕らの脳みそは数字を覚える機能が必要なくなったわけだ。
今や出発駅と到着駅をスマホに伝えればなくても、時間も乗車するホームもすべて教えてくれる。
時刻表を見る能力も必要なくなった。
カーナビが生まれて、道も覚えられなくなった。
とりあえずカーナビを設定して、それに従って運転すればいい。
僕らはいろんな便利さと引き換えに、これまで有していたはずの能力の一部を失っていっているわけだ。
例えば、教育の世界で幼い頃からタブレットに触れさせるようになった。
それは本当に便利なんだろうか?ということは、とりあえず置いておくとして、タブレットに触れることで失われていく能力はないだろうか。
「便利」を良いこととする感覚は、今風ではあるけれど、教育という視点に立てば、全く異なる見方ができるのではないだろうか。
便利であることが、何らかの機能を失わせる効果があるとしたら、便利を教育に持ち込むことは、よくよく考えるべきことなのではないだろうか。
さてさて、昨今、A.I。が話題だ。
読書感想文をA.I.が書くぞ!さあ、どうする?
そんなレベルで語られることが多いけれど。
ん???
そうじゃないぞ!と僕は思う。
書くことは考えることと直結している。
作文は写経をしているわけではない。
考えながら書くのである。
この文章を書いている僕も今、考えながら書いている。
つまり「書くこと」を放棄するということは「考えること」を放棄することでもあるのだ。
つまり、A.I.を持ち込むことは、「考える」という人間を人間たらしめる機能を失わせることにつながると思っている。
毎日のように文章を書いている僕が、A.I.を使って仕事を始めたところ、僕は僕の中に大きな変化を感じた。
便利さと引き換えに、明らかに「考えること」が失われている感覚がしたのだ。
だから、僕は最近、せっせと文章を書くようにしている。
A.I.が仕事をした分と同じくらい、自分も書くようにしている。
教育は未来を創る仕事である。
文科省は、教育現場ではA.I.を禁止するぐらい思い切ったことをしてもいいと思う。
それは先生に使うなと言ってるわけじゃない。
大人のことなんか、ぶっちゃけどうでもいい。
子どもたちである。
特に義務教育の子どもから考える機会を奪うかもしれないことを危惧している。
Googleが生まれて、本で調べることはトンとなくなった。
便利ではあるけれど、知識を教養に変えるような深まりはない。
これでA.I.に考えさせ出したら、人間を人間たらしめるものが何もなくなってしまう。
便利であることは人間を退化させる。
ほら、宇宙人の姿を思い出してほしい。
便利になった挙げ句の果てが、あの姿なんだ。