なぜ僕らは「自分探しの旅」を始めてしまうのか?
僕らはみんな、自分のことがよくわからない。
これを自己不確実感と呼ぶらしい。
自分がどんな人間なのか知りたいと願っています。
性格診断的なもので、自分の性格を知ったりもします。
自分の性格なのですから、いちいち調べなくてもわかりそうなものですが、そうではありません。
性格診断的なものの結果を見て、「そうそう、私ってそうなの!」なんて気づいたりするわけです。
さて、僕らはどのように自分を知るのでしょうか。
赤ちゃんは鏡に映った自分を認識できないと言います。
2歳ぐらいになってようやく、鏡の中の自分の姿を、「これは鏡に映っている自分だ」と認識できるのだそうです。
そのあたりから「私」の存在を認識し始め、「イヤイヤ期」が始まるのです。
ちなみに、思春期になると、人と比べることを通して、自己を認識します。
だんだんと自分を知っていくことで、得意なことや苦手なことも見えてきます。
優越感を感じたり、劣等感に苛まれたりしながら、自分を知るんですね。
最近、褒めて育てるのが流行りです。
その結果、「万能感」「全能感」をもった大人が増えているという話を聞きました。
自分は何でもできると信じているんですね。
この感覚を卒業するのが思春期なんです。
小学生のときは、「アイドルになりたい」「野球選手になりたい」って、いろんな夢を描きます。
でも、思春期になって、人と比べることを覚えると、鏡を見て他の子と比較して、自分はアイドル向きの顔立ちではないことに気づいたり、そこまで野球の才能がないことに気づいたりするわけです。
他者との交わりやいろんな挫折が、僕らから「万能感」「全能感」を奪っていきます。
それでいいんです。
そうやって自分を知りながら、この社会に貢献できることを自分の能力でできる範囲でやっていくのが人生です。
ところが、そういった思春期のときにしておくべき経験をしておかないと、「万能感」「全能感」をもったまま、大人になります。
「自分なら何でもできる」と誤解したまま成長するんですね。
これは「根拠のない自信」とは別物です。
「やればできる!」が口癖で何もやらない。
口ばかり達者で行動しない。
そんな人になります。
「根拠のない自信」のある人は、どんどん行動します。
「なんか行けそうな感じがするんだよね」
そういう人が「根拠のない自信」のある人です。
「万能感」「全能感」をもった大人は違います。
壮大な夢ばかり語るけれど、行動をしません。
「やればできる」と言っているだけで、やりません。
「万能感」「全能感」をもった大人は、自分に異を唱える者を遠ざけます。
意見する人間を嫌うのです。
これは自分の中の「万能感」「全能感」が揺らぐからです。
「できない」という結果が怖い。
なので、失敗を恐れ、行動しません。
それが「やればできる」の土台になっています。
2歳になって自分を知るとイヤイヤ期になり、思春期になって人と比べると反抗期になる。
どちらにも自分への理解を深めるための通過儀礼のようなものでしょう。
人間の成長には発達段階があります。
一足飛びに成長することはありえません。
情緒は順番に育っていくのですね。
さて、大人になって「自分探し」を始めてしまう人の特徴はズバリ、子どものころ「良い子」だったことです。
この「良い子」はちょっと語弊がある表現なので、もう少し詳しく書きますと、いわゆる親にとって「良い子」だったということです。
ボンタンに長ランでも、親の前で「良い子」だったら「良い子」です。
つまり、愛されるために親の思う理想の子ども像を演じてきたんですね。
子どものころ、自分らしく生きてきた子は、どうしたって親や教師と衝突する機会があります。
そういう経験が「私」というディティールを作っていきます。
持って生まれた素質を素材として、親兄弟、教師、習い事の先生などいろんな人たちに削られて、加工されて、成形されたのが「あなた」です。
それらの経験を飛ばして、「あなたはあなたのままでいいのよ」と言われたり、親や教師と衝突しなかったりして、成長期に揉まれないと、自分がわからなくなっちゃうわけです。
自分を知るためには、人と関わることが重要です。
衝突することは悪いことではありません。
自分のことがわからないならば、人と交わることです。
いっぱい失敗をすることです。
たくさんの人に助けてもらうことです。
自分を知るためには、自分を削る彫刻家のような取り組みが必要なのだと思います。
海外旅行に行っても、自分は見つかりません。