「そうか、あの人ってそうなんだ」と他者を理解することが人間関係改善に役立つ理由
たとえば不登校だった子がいて、「この子はこんな子でね」なんてことを分析する。
僕はそんな人材分析を生業にしている。
すると、お母さんは「そうなんです。ウチの子、そうなんです!」と涙ながらに反応する。
僕はこのプロセスが一体なぜ人の悩みを解決するのか、ずっと疑問だった。
僕が人材分析を始めてから、よく話題になるのが「当たってるか、当たってないか」という話題だ。
僕は(そんなの、どうでもよくない?)と思っているのだけど、一般の人たちは「当たってるか、当たってないか」を重要視する。
「当たっている」と感じるのは、クライアントにとって既知の情報だからである。
「当たっていない」と感じるのは、クライアントにとって未知の情報だからである。
僕の分析が「当たってるか、当たってないか」は、クライアントの自己理解、もしくは他者理解と深く関わっている。
だから、「当たってるか、当たってないか」はどうでも良いのである。
早い話、クライアントのことが自分自身のことをまったく理解しておらず、他者のことをわかろうともしない人間だったら、「全然当たってないな!」となるのである。
で、僕が人材分析すると、悩んでいたあの人のことが深く理解できるようになる。
たとえば旦那さんのこと、たとえば我が子のこと、たとえば部下のこと、たとえば児童生徒のこと。
で、いつも思う。
なぜそれで人は救われるのか、ということである。
だって、事実は何も変わらない。
親が子どもに悩んでいて、我が子のことが理解できたとしよう。
でも、子どもに対する悩みは何も解決していない。
それなのに、「これでスッキリしました」という言葉になって返ってくる。
僕にはこのメカニズムがよくわからない。
思えば、僕はあまり人間に対して悩んだことがない。
いつもいつも(まー、仕方ないか)と思っている。
「変えられるのは自分だけ」と強く信じているから、相手を変えようとは考えない。
(あー、あなたはそういう人なのね)と思うだけで、(まー、仕方ないか)としか考えないわけだ。
たぶん人は、他人を変えられると思っている。
自分の声の掛け方で、自分のアドバイスで、自分の怒りで、相手を変えられると思っている。
だから、変わらない相手にイライラする。
自分の思い通りに動いてくれない、育ってくれない他者にイライラする。
僕の分析は、「この人はこういう人で、そこは変わらない部分ですよ」という結論に至る。
ただ、「ここは変わる部分だよ」というところを示し、そのための方策を助言する。
「変えられるのは自分だけ」だから、あなたが変われば、つまりは動けは、相手も変わる可能性がある。
あくまでも、それは可能性だ。
変えられるのは自分だけだから、相手が変わるのは相手の意思でしかない。
あなたの行動が相手の意思に影響を与えるのである。
だから、思う。
分析だけでは何も解決しない。
分析した上で、「じゃあ、どうする?」に価値があると思っている。
人は「方法」がわかると、とりあえずやってみようと思う。
人間関係は八方塞がりなことが多い。
つまりは、何をしていいのかわからない、ということが多い。
だから、「方法」がわかると、光が見える。
実行しなければ何も変わらないという現実も見える。
「見える」ってのは大事なんだろうなと思う。
昔、あるお母さんがいろんな「占い師」に相談したそうだ。
異口同音に「この子は大変な子よ」と言われたそうだ。
それでお母さんが尋ねた。
「それで、どうしたらいいですか?」と。
方策について、誰も答えてはくれなかったそうだ。
「仕方がない。受け入れるしかない」
そうやってバカの一つ覚えみたいに答えた。
それでは光が見えない。
人が見たいのは光である。
本当の他者理解とは、光が見えることなのである。