雨に濡れた紫陽花を見て、僕はこんなことを考えてみたんだけど、君は何を思う?
高知県に来ている。
幼稚園で子育て講演会と職員研修をさせていただく。
朝目覚めると生憎の雨。
真っ白いマグカップに注がれたコーヒーを口に運び、窓からぼんやり外を眺めていた。
窓の向こう側に紫陽花の花が咲いていて、雨に打たれている。
それが何とも美しい佇まいで、僕は背筋を伸ばした。
梅雨はシトシトと地面を濡らし、僕らの気持ちを少しだけ憂鬱にさせる。
たまの雨ならば心地よいが、降り続く雨はうんざりさせる。
紫陽花はこの時期にしか咲かない。
もし彼らが咲かなければ、いよいよ梅雨は重苦しい季節になったのだろう。
紫陽花は梅雨時の痛みを緩和する作用があるように思えてならない。
思うに、桜は春をより春らしく彩る。
彼らが年中咲き誇っていたのでは、ちょっと目に煩いようにも思う。
やはり桜は春に咲き、颯爽と散るからこそ美しいのである。
儚さに美しさを重ねるのは、日本人特有の美的感覚かもしれない。
春に咲く桜も、梅雨に咲く紫陽花も、それぞれがそれぞれの役割を果たしているように思えてならない。
同時に、相手の役割を奪おうとしないのもまた、慎ましい。
最近よく「自分らしく」なんて言葉を耳にするけれど、君の目指す「自分らしさ」は「本当に君の自分らしさかい?」なんて思うことがある。
桜には桜の咲く場所、咲く季節があり、紫陽花には紫陽花の咲く場所、咲く季節があるわけで。
それらが人に与える影響もまた異なる。
桜は気分を高揚させ、紫陽花は痛みを癒す。
花に「花言葉」があるように、人に「人言葉」があってもいいのかもしれない。
「自分らしさ」を語る前に、自分を言葉にしてみたら面白い。
それが自分を知るキーワードになるだろう。
幼稚園での職員研修。
園にはいろんなスタッフがいる。
教育職の難しさは、全員が子どもたちの前に立ち、保護者に接しなければならないことにある。
向かないからといって、バックヤードで皿洗いをするわけには行かない。
この職業を選んだ以上は、表舞台に立たねばならない。
職員からも保護者からも一定水準を求められる。
ゆえの難しさがあると思う。
同じ仕事をしているようで、実は全員が異なる仕事をしている。
業務は同じでも、子どもや保護者に与える影響は異なる。
桜のように気分を高揚させる先生もいるし、紫陽花のように痛みを緩和する先生もいる。
組織にはいろんな人が必要である。
切り捨ててはいけない。
桜も紫陽花も、切り捨てれば朽ちてゆくだけである。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/kutv/513439