新しい教育もいいけれど、それって出口はあるんかね?
東京都の渋谷区が午後の授業をすべて探求学習にするという。
そのニュースを取り上げて、「午後はずっと自由時間だ」」と喜んでいる保護者がいた。
そのご家庭のお子さんは不登校なのだそうだ。
探求学習は自由時間だと考えるのは大きな誤解だし、教科学習が少なくなることが、不登校の子どもにとって登校の障壁を減らすことになるとも思えない。
今の教育が間違っていて、何かどこかに素晴らしい教育があるような錯覚。
僕はそんな魔法のようなものはないと思っている。
そんな折、NPO法人翔和学園がギフテッド教育をやめるという記事も目にした。
是非はともかく、教育界は今も昔も試行錯誤の連続だな、と思う。
幼稚園や保育園、小中学校で学ぶ基礎基本。
こういった学習内容を取り上げて、「社会に出たとき役に立たない」とおっしゃる方もいる。
化学の元素記号や弥生時代の暮らしが、現代社会の僕らの暮らしに直接影響を与えることはないだろう。
そうやって、学習内容を切り取って論じれば、「意味がない」と結論づけることは難しくない。
でも、学校で学ぶということは、そんな小さな話ではない。
級友と語り合いながら、わからないことをわかるようにしていくプロセスが大事なのだ。
教室は間違える場所だ。
間違えて修正する。
そうやって、自分自身をアップデートしていく。
社会に出れば、簡単に「間違い」を許容してもらえない世界が待っている。
だからこそ、子どものうちはいっぱい間違えて、いっぱい失敗して、アップデートの仕方や問題解決の仕方を覚えていくのだ。
人間関係だって、たくさんのすれ違いを起こす。
苦手なクラスメイトを避けていては成り立たないから、上手に折り合いをつけることも大切だ。
そうやって、子どもから大人に成長するために学ぶ。
学校はそういう場所だと思う。
時代の要請に従って、学校自身もアップデートを繰り返していく。
新しい取り組みやいろんな失敗があってもいい。
昨今はフリースクールも増えた。
サドベリースクールなどオルタナティブスクールを見学したこともある。
渋谷区の午後の授業をすべて探求学習にするというのも斬新だし、ギフテッド教育も新しい取り組みだ。
それで、僕が中学校の先生だったからだろうか、新しい教育のスタイルが出てくるたびに思うことがある。
その出口はあるのだろうか、と。
以前、森の幼稚園に子どもを通わせていた保護者とお話をしていたときのこと。
森の幼稚園というのは、文字通り森の中で学ぶ一風変わった幼稚園で全国的に広がってきている。
いわば、幼稚園時代を森の中で自由に暮らすわけだ。
なかなかに魅力的である。
ところが、そのお母さん曰く、小学校に上がったときに、教室で座って授業を受けることが苦痛に感じてしまうというのだ。
「だから、学校が悪い」というのだけど、僕はそうは思わない。
教育って出口とワンセットだと思っている。
選択肢は2つあって、1つはそのまま自由な環境で学べる小学校を作っておくこと。
それなら、その幼稚園を卒園した後の受け皿になるだろう。
今ひとつは、自然いっぱいで暮らしながらも、既存の小学校に適応するための準備もさせてあげること。
そうすれば、小学校に上がったときに迷うことはないだろう。
何が言いたいかというと、教育者は子どもの一生を面倒見ることはできないということである。
長い長い人生の、ほんの一部で関わるだけだ。
当然だけど、その後の人生のほうが長い。
既存のシステムは、幼稚園や保育園から小学校へ、小学校から中学校へ、中学校から高等学校へ、スムーズな移行ができるように作られている。
教科学習を削れば、学年が上がったときに未習の単元も出てくるだろう。
そういう出口までデザインされているだろうか、と思ってしまう。
ギフテッド教育で興味深い話があったのでシェアしたい。
自分はギフテッドで特別な能力があるという自己認識。
これが邪魔をして他者の意見に耳を傾けることができなくなったという。
また、失敗に耐性が低く、諦めも早いという。
学力は飛級できても、人格形成は飛級できない。
なかなか興味深い話である。
力を伸ばすことは確かに大切だ。
でも、忘れてはいけないことがある。
それは、そこを卒業した後も、ちゃんと生きていけるように成長させることだ。
学力がいくら高くても、社会生活を営めないようでは困ってしまう。
懐かしいな。
生きる力、最近聞かないね。