情報を鵜呑みにする大人たちに必要な批判的思考力
最近いろいろなところで批判的思考力という言葉を耳にする。
「批判的」とあるので、なんとなくマイナスな言葉に感じる。
批判ばかりする人は、なんか嫌な人だ。
やっぱ肯定的な人が良い。
浅はかな人はそんなことを考えるかもしれない。
そういう意味ではない。
僕なりの言葉で言語化するならば、「その頭で考える」ということである。
大人の8割は、いや9割は情報を鵜呑みにする。
テレビや新聞、ネットの情報を鵜呑みにして、発信された情報を「正しい情報」として理解してしまう。
一方で、陰謀論的な情報が大好きな人たちも、「メディアの情報は間違っている。私たちは真実を知っている」と偏った自意識を持って、自分たち側の情報を「正しい情報」として理解している。
この「与えられた情報」を「正しい」と認識してしまうことそのものが危険なのであり、それは「その頭で考える」ができていない証拠と言える。
情報をただ鵜呑みにするのではなく、「本当にそれは正しいのだろうか?」と一度立ち止まって考える。
そういう思考ができることが、批判的思考力である。
「本当にそれは正しいのだろうか?」と考えるならば、いろいろな角度から物事を検討する必要がある。
情報を精査し、何が正しくて何が正しくないのかを見極める目が必要だ。
他者との対話を通して、考えを深めていくことも大切だ。
「俺はこう思うけど、君はどう思う?」
そういう対話を成立させるためには、豊かな人間関係も欠かせない。
「その頭で考える」であるから、なんとなく個人で完結しそうに思えるのだけど、実は他者の存在が必要不可欠である。
話すことでこそ、思考は深まっていく。
どうも昨今のテレビ番組を見ていると、大人って議論が好きだな、と思う。
どちらが正しくて、どちらが間違っているか。
そういう戦いが多い。
意見を戦わせることで思考が凝り固まってしまい、思考が深まっていくことは少なくなる。
議論より対話なのだけど、「正しいか、正しくないか」の世界を生きている人たちは、対話よりも議論を好んでしまう。
結果として、同じような考えをもった人たちで徒党を組む。
昨今はそのような似た者たちの集まった集団をコミュニティと呼んだりする
情報を鵜呑みにする大人たちがコミュニティを好む理由はお察しの通りだ。
人がいれば、人の数だけ正義があって、正しいも間違いも本当はなくて。
この世界にはどんな事実があって、その事実をもとに「あなたはどう考えるのか?」が大事なのだけど。
事実は何で、意見は何か。
何を根拠に、自分はどう考え、他者は何を思うのか。
そうやっていろんな角度から考えていく。
そういう批判的思考力を育てていくことが、これからの教育では大切である。
これまでの時代は「先生の言うことは正しい」であり、「教科書に書いてあることは正しい」という教育だった。
そのような教育を受けた結果、情報を鵜呑みにする大人たちが増えてしまった。
インターネットがもたらしたのは、多種多様な正しさ(情報)が溢れている社会である。
それって実は情報を鵜呑みにする大人たちにとっては生きにくい社会なのである。
情報を鵜呑みにする大人たちはいつも正しい情報を探してしまう。
批判的思考力が育つと、情報に正しい正しくないは存在しないと認識が変わる。
見る角度が変われば、その情報は正しくなるし、正しくなくなることもある。
ただ事実がそこにはあって、情報は事実をどう伝えるかで変わるものだから、正しい正しくないを議論することに意味がなくなるのである。
そこにある事実をもとに、「その頭で考える」が大切だ。
そういうことができる子どもは、「この事件について、僕はこう思うんだ」という意見が言えるようになる。
これ、むちゃくちゃ社会の一員として重要な力なのだ。
「君はどう思う?」と尋ねたとき、「あの人はこう言っていた」「テレビでこう言っていた」「本にこう書いてあった」と、他者の作った情報を根拠にして語ろうとする大人は多い。
情報を鵜呑みにする大人たちの好む根拠は他者の作った情報である。
いやいや、待て待て。
問われたのは「君はどう思う?」なのである。
根拠となるのは事実だけであり、情報ではない。