事実は何で、情報は何か。議論と対話はどう違うのか。
「その頭で考える」が大切だよ、という話を書いた。
情報を鵜呑みにせず、「それは本当だろうか?」「それって正しいのだろうか?」と一度立ち止まって考える。
こういうことを批判的思考力と呼ぶ。
英語で書くとクリティカルシンキング。
ちょっとカッコいい。
この世界は情報に溢れている。
情報は事実ではない。
事実を「情報を伝える人」がどう伝えるかで「情報」は変わる。
ダウンタウンの松本人志さんの件を例にするなら、女性寄りの情報も、松本さん寄りの情報も、どちらも事実をある一面から切り取って報じているに過ぎない。
女性側から見れば松本さん寄りの情報は「誤った情報」となるし、松本さん側から見れば週刊文春の記事もまた「誤った情報」となるのだろう。
こういった「どちらが正しいか」みたいな話は基本的に平行線を辿ることになる。
だから、本当は「対話」が必要なのである。
もちろん、こういう案件で互いが歩み寄って対話することなど不可能であるから、裁判という形になるのだろうけど。
人間関係ですれ違いを起こしたら、互いの話を伝え合うことでしか解決しないと思っている。
その際に必要なのは議論ではなく対話である。
議論をすれば平行線を辿る。
どちらが正しいかを議論することは意味のないことだ。
人間関係ですれ違いを起こしたときは、勝者と敗者を作ってはいけない。
すれ違ったら引き分けでいい。
僕はむしろ、率先して敗者になりにいく。
さっさと謝って人間関係の修復を図る。
必要なのは対話である。
自分の中にある言葉をアウトプットして相手に届ける。
それだけではいけない。
今度は相手の言葉を聞いて、自分の中にインプットしていく。
このアウトプットとインプットを繰り返すことで、自分自身をアップデートしていく。
この作業に必要なのは人間関係である。
互いの関係性が壊れていれば、相手の言葉に耳を傾けようとは思わない。
好意とは言わないまでも、やはりそこに確実な人間関係があってこそ、対話は成立する。
アルコールの力を借りると、舌が軽やかになるように、僕らはどこかで相手に対する警戒心があって、簡単には対話は始まらないようにできている。
会議だってファシリテーターのような人がほどよく問題提起をしてこそ、場が活性化したりもする。
対話はやはり豊かな人間関係、安心安全な場があってこそ成立するわけで、週刊誌に書かれるような事件は、解決の場が裁判所になってしまうのも致し方ないのだろうと思う。
ただ健全な人間社会を思えば、誰もが皆、互いに歩み寄って対話ができるような社会が本当は望ましいのだろうな、とも思う。
情報は正しくないかもしれないし、自分の意見も正しくないかもしれない。
そんな前提をもとに物事を眺めているからこそ、対話は成立する。
別の角度から眺めたら、どう見えるだろうか?
そんな好奇心があるから、他者の言葉を聞いてみたくなる。
対話はそんなところから始まる。
「僕はこう思うけど、君はどう思う?」
ここから始めたいと思う。