人間関係における主導権を握る側、握られる側
1対1の人間関係を考えたとき、二人の関係性が真の意味で「対等」ということはあり得るのだろうか。
先生と生徒、上司と部下、コーチと選手、親と子。
そこにはどうしても、力の強い者と力の弱い者が存在するように思う。
もちろん、ここでいう「力」とは腕力のことではない。
イニシアチブを取る側、つまり主導権を握る側が存在するという意味だ。
それで、この主導権というは先生、上司、コーチ、親といった力の強い側がに握ることになる。
主導権を握る側の心のグラスが満たされていないと、相手をコントロールしたくなる。
したがって、相手に対する圧力を強めることになる。
主導権を握る側の心のグラスが満たされていると、器が大きくなって相手を受け止めることができる。
そのように考えると、主導権を握る側の心の状態が二人の人間関係においては重要であることがわかる。
先生に悩む生徒、上司に悩む部下、コーチに悩む選手、親に悩む子ども。
こういった主導権を握られる側からの人間関係の相談を受けると、答えに悩む。
ウッカリすると、「我慢しなさい」とか「仕方がない」とか、結局は「離れなさい」というアドバイスをしてしまう。
主導権を握られる側にできることは案外少なかったりする。
一方、主導権を握る側にはできることが多い。
人間関係を左右しているのは、実は主導権を握る側だから、「あなたが変われば関係性が変わる」が成立するわけだ。
先生が変われば生徒が変わる。
上司が変われば部下が変わる。
コーチが変われば選手が変わる。
親が変われば子どもが変わる。
言われてみれば当たり前のことである。
これが男と女の関係になると、話は別である。
この場合、主導権は常に入れ替わり続ける。
ある場面では男性が主導権を握り、ある場面では女性が主導権を握る。
絶えず主導権を入れ替えながら、愛を深めていく。
けれど、それは決して簡単な作業ではないから、儚く消えることも多い。
友人関係は、どちらも主導権を握らない関係ともいえる。
友達をいうのは不思議な存在で、嫌ならばそっと離れればいい。
そもそも嫌でないから、一緒にいるわけで。
これが、どちらかが主導権を握ろうとすると関係性が壊れていく。
相手を尊重し、互いが自分らしくいることが友情を存続させる鍵である。
そう考えると男と女の関係は、「嫌ならば離れればいい」が通用しないところがあって、ズルズルと関係を引きずってしまうことも多い。
ママ友との関係も同じ。
(いっしょにいたくない)と思っても、諸般の事情で離れるわけにはいかぬことも多いか。
この、「いっしょにいたくない相手」といかに折り合いをつけるかは、この社会を生き抜く術(スベ)のように思う。
僕らは一人では生きていくことができない生き物だ。
だから、いろんな人と関わり合って生きていくしかない。
そこには無数の1対1が存在している。
好きな人とだけ付き合っていくわけにもいかない。
僕らはどのようにして、折り合いをつけているのだろうか。