「仕事に行きたくないよう」と思った朝は…
人はなぜ働くのだろうか?
連休明けの朝は仕事に行きたくない人も多いだろう。
日本理化学工業というチョークを作っている会社がある。
従業員の7割は知的障害があるという。
特別支援学校の先生にお願いされて、障害のある子を採用するようになった。
けれど、社長さんは疑問に思った。
施設でのんびり暮らすこともできるのに、なぜ働くのだろう?と。
そんな疑問をお寺のお坊さんに尋ねると、次のような話をしてくれたそうだ。
人には4つの幸福があるという。
人に愛されるという幸福。
人に褒められるという幸福。
人の役に立つという幸福。
人に必要とされるという幸福。
人に褒められ、人の役に立ち、人に必要とされる。
働かなくても愛されるかもしれないけれど、それらの幸福は働くことでこそ得られるものだろう。
その話を聞いて、社長さんは障がい者の雇用を始めたのだそうだ。
僕らがなぜ働くのか。
人に褒められ、人の役に立ち、人に必要とされるためである。
そうすることで得られる幸福のために、僕らは仕事をする。
いやいや、生きるために働いているのだ。
お金を稼げなければ、ご飯が食べられないじゃないか。
それも確かにある。
確かにあるのだけれど、そのためだけに時間を費やすと心がすり減っていくように思う。
人は誰しも幸せになりたいと願う。
けれど、幸せはなろうとして手に入るものではなく、幸せであることに気づくことで手に入るものなのだ。
あー、嫌だな、仕事。
そう思って迎える朝もあなたの朝だし。
さあ、今日は誰に喜んでもらおうかな、と思って迎えるのもあなたの朝だし。
結局、幸せもまた、あなたの心が作り出しているものかもしれないわけで。
思考が現実を作る、ってのはそういうことなんだろうな、と思う。
人生ってさ、迷子になりやすい。
何のために生きてるのかな?とか、何のために働いてるのかな?とか、時折わからなくなる。
わからなくなるとさ、お金のために働いてるんだって自分を納得させようとするんだけどね。
自分の仕事で喜んでくれる人の顔を思い浮かべたり、感謝の言葉を思い出したりすると、わずかだけど光が見えてくる。
暗闇を歩いていると、自分がどこにいて、どこに向かっているのか、わからなくなる。
光のない世界ってのは、そういう世界だ。
光が見えないときは、進むのではなく、まず灯りをつけることから始めなければいけない。
「行きたくないなぁ」と思って始まる朝は、何だか光の見えない朝なのだけど。
そこに明かりを灯してみよう。
きっと道が見えてくるから。