「寄り添う」って何だろう?

だれのための行動だろう?

「子どものために」と言うけれど

僕らは「子どもたちのために」と思って「何か」をする。

そんなとき、この視点を忘れがち。

 

 

忘れがちな視点。

それは、子どもたちは「それ」を望んでいるか、という視点です。

 

 

僕は「不登校」を「学校に行かない選択」をしていると考えています。

「学校に行けない」のではなく「行かない」。

 

 

それが「やりたい!」から始まる「愛の選択」であろうと。

それからまた、「やらねば!」「やるべき!」から始まる「恐れの選択」であろうと。

 

 

僕らの行動は、すべて僕らの選択から生まれている。

だから、「行けない」のではなく「行かない」

 

 

そう理解しています。

 

 

講演会での質問

 

「学校の先生は、一人ひとりの子どもたちの話を聞く余裕がないんです、という校長先生がいます。そんな校長に一言、言いたい!何て言ったらいいですか?」

 

 

そんな質問をいただきました。

僕は、質問者の感じているものを味わおうとしました。

そこにあったのは「怒り」と「悲しみ」でした。

 

 

そう。

「質問」したかったのではなく「怒り」をぶつけたかった。

僕はそんなふうに感じました。

 

 

お子さんが不登校なんだそうです。

それで校長先生から、そう言われたのだとか。

もちろん、どんな流れでそう言われたのかは、完全に割愛されていますから、詳しいことはわかりません。

 

 

大きなホールで答える「質問」にしては、かなり個人的な案件でした。

ですから、「質問に答える」というよりは、まず「味わう」からスタートしてみたのです。

 

 

そこから、僕はいくつかの「しつもん」をしました。

結局、そのお母さんが伝えたかったのは、学校の先生が何度も何度も「学校においで」と言ってくる。

それが苦しい、というお話でした。

ちなみに、彼女が自分で導き出した「答え」は、「登校刺激を必要としていない」と学校側に伝える、というシンプルな答えでした。

 

 

最初の質問とは、ずいぶん距離のある「答え」だと思います。

最初は外に向かっていた「怒り」。

でもでも、次第に「フォーカス」を変換し、最後は内面に向かう。

 

 

そんな質疑応答の時間になりました。

 

 

「学校の先生」の立場で考えると

一方、「学校の先生」の立場で考えると、「不登校」は解消したい問題の一つではあります。

 

「業務」という視点でいけば、彼らは「超」多忙な毎日を過ごしています。

「不登校」を「問題」として捉えた場合、「やるべきこと」は一気に増えるのです。

 

電話をかけたり、家庭訪問をしたり。

プリント類を届けたり、必要な書類を回収したり。

「学校の先生」という視点だけで見た場合、業務の負担は大きくなります。

 

 

一人不登校の生徒がいるだけで、学級経営も大きく変わります。

「みんなで」的な言葉は一気に使いづらくなる。

学級通信1つ書くのだって気を使います。

 

「集合写真」もなんだか味気ない。

と、「学校の先生」という視点だけで考えると、たしかにけっこう「やりづらさ」はあります。

 

まあ、僕は「学校に行けない」のではなく、「学校に行かない選択」をしていると理解しています。

たから、問題とは思っていなかったのだけれど…。

 

 

若い頃を思い起こせば、やはり大変だったことを思い出します。

 

 

 

だれのために先生をしているのだろう?

そんなわけで、登校刺激なんてほとんど与えませんでした。

そんな僕を見て、「あの先生はやる気がない」と罵られたこともあります。

 

 

それは、ある年のことです。

僕のクラスには、不登校の子どもがいました。

 

毎週手紙を書きました。

また、週に1、2度はお母さんには電話を入れました。

返事の来ない相手に手紙を書くのは、かなり根気と時間のいる作業でした。

また、毎度毎度1時間近く話を聞かされることにもなりました。

 

 

だが、最後はこんなふうに言われた。

 

「先生は一緒にがんばりましょうと言ったクセに、何もできなかったじゃないか。

結局ウチの子は不登校のままじゃないか。

普通の先生は毎週家庭訪問をするもの。

あなたはやる気がなかった」

 

僕はただただ頭を下げるしかありませんでした。

 

ついぞ、一度も返事の来なかった手紙。

それはそうです。

 

唯一彼女からもらった手紙がありました。

それは、始業式の日にもらった手紙です。

 

 

「家に来ないでください。

電話をかけないでください。

手紙を書かないでください」

 

 

それでも、僕は「手紙」を書いた。

その手紙はたぶん、僕のために書いたのだ。

働いているフリをするために書いたのだ。

 

 

また、お母さんを満足させるために書いたのだ。

僕はいったい、だれのための「先生」だったのだろう?

 

 

 

 

「子どもたちのために」と思って僕らは「何か」をするけれど。

でも、やはり忘れてはいけないのは、「子どもたち」は本当に「それ」を望んでいるのか、という視点だと思う。

 

 

「寄り添う」って、カンタンじゃない。

もっと子どもを感じて、気持ちを味わう必要があるだろう。

 

 

その感性がないと、大人の行動は子どもたちを苦しめるものになってしまうと思う。

 

 

ハッピーな先生になるためのしつもん

その行動は、本当は「だれ」のための行動だろう?

 

くればやし ひろあき

・株式会社ミナクル組織研究所 代表取締役

・フォロワー10万人の教育系TikTokクリエイター「くれちゃん先生」として人間関係や教育についての動画を配信

・1978年、愛知県生まれ。16年間公立中学校の教員として3,000人以上の子どもたちを指導。名古屋市内で最も荒れた中学校で生徒指導の責任者を務め、その後、文部科学省から上海に派遣され、当時世界最大の日本人学校であった上海日本人学校の生徒指導部長を務める。

・2018年~2019年 100人のボランティアスタッフをマネジメントして『子育て万博』を主催。

・2021年~2024年 パリコレクションのキッズ部門を日本に誘致して開催された『Japan Kids Fashion Week』において、全体計画及びキッズモデル・ボランティアスタッフのマネジメントを担当。

・経済産業省の事業再構築事業として人材分析システムCrewDocks®︎を開発。企業研修など精力的に活動中。