不登校という問題は、だれの中で起こっている問題か。
不登校は何が問題か
そもそも世の中で起きている問題は、「問題だ」と思っている人間の中でしか起きていない。
「アイツって、問題だよね」って言ってるヤツの中では、「アイツ」は問題なのだけど、「アイツ」の中では問題じゃないんだよね。
これ、伝わりますでしょうか?
で、本題ね。
「不登校」って、何が問題なのかというと、
だれにとっての問題か、ということなわけ。
あのね、
「問題」は「問題」だと思っている人の中で起きてるんだよね。
つまりさ、
「学校に行かなければならない」と考えている大人にとっては問題なわけ。
わかります?
「学校?
行きたければ行けばいいし、
行きたくなければ行かなければいい」
そう思っている大人にとっては、「学校に行かない」のは問題ではないわけね。
「こうでなければならない」に縛られない
僕は来週から娘と旅立ちます。
学校?
行きません。
旅行より学校の方がおもしろければ、、子どもは学校に行くことを選んだと思います。
ただ、それだけです。
「学校休んで旅行に行く」と決めたのは、この子です。
僕にできるのは、この子の選択を応援するだけ。
学校を休むことを問題だと思っていない僕は、学校を休んでも問題ではないことです。
ニーズのぶつかり
服、着ます?
着ますよね?
全裸だと問題ですよね。
「衣服を着るべき」だから、全裸は問題です。
でも、もしもあなたが裸族の世界に入り込んだら、服を着ていることは大問題です。
伝わります?
不登校の問題がどこで起きているかというと、「学校に行かなければならない」と考えている大人の中で起こっているわけです。
んじゃ、「学校に行かない選択」をしている子どもにとっては、何が問題でしょうか。
それは、「学校に行きなさい」と言う大人の存在です。
その存在が問題です。
だから、子どもと大人はぶつかります。
家庭内暴力だとか引きこもりだとか家出だとか起こります。
だれから逃避してるんだろうね?
って話なわけです。
伝わりますかね?
自分は「行かない」と選択している以上、それをコントロールしようとする「大人」の存在自体が問題になってきます。
子どもは「行かない」がニーズであり、「行かない」ことによってそのニーズは満たされます。
一方、大人は「行かせたい」
ですから、子どもとぶつかります。
したがって、不登校が問題に見えてきます。
というわけで、不登校の問題がどこで起きているか。
「不登校が問題だ〜っ!」と言っている大人の中です。
原因を子どもに求めると楽なんだよね
専門家気取りの人たちがですね、
「子どもの自尊心がどうのこうの」とか、
「この子は自信がないからだ」とか、
ごちゃごちゃごちゃごちゃ、
さも知ったように言います。
あたかも、子どもに原因があるように言います。
いや、違うぞ、と。
問題は起きていないんだよ。
ただ、選択しただけなんです。
伝わるかな?
問題は子どもの中に起きてね〜ぞ!と。
みんながみんな学校好きなわけね〜じゃん?
子どもはみんな、ハンバーグが好きだと思ってねぇか?
行きたくないもんは行きたくないんだよ。
行きたくない場所にいやいや行くことって大事なのかな…。
そうやって、子どもとのつながりを途切れさせることが大事なのかね。
そういえば、ウチの子たちは上海日本人学校時代、立派に2学期までに30日欠席したんだよね。
日本なら、ちゃんと不登校でカウントされる。
いや〜、担任の先生に心配された。
「お子さん、どうされてますか?」
「あ〜っ、大丈夫っすよ。行きたくないだけなんで」
そう。
ただ、行きたくないだけ。
別に問題じゃないんだよね。
子育てに迷ったときに出会いたい100の言葉
その問題を問題と感じているのはだれですか?