本当は学校を作りたいわけではないのかもしれない。
こんな学校を作りたい
僕が学校を作るなら営業時間は10時から15時くらいがいいなぁ。
先生には駅で待っていてもらって、子どもたちといっしょに登校してもらえたらいい。
帰りも15時になったらいっしょに帰ってもらえばいい。
実働5時間。
そのぐらいでちょうどいい。
会議なんてやらない。
チャットワークで十分だし。
夜にZOOMでもやればいい。
テストなんかやらないし、
評価もしない。
学校だよりはメールで配信するから印刷もしない。
先生の仕事は徹底的に削る。
先に決めるべきは「何をやるか」ではなく「何をやらないか」だと思う。
保護者との情報交換はフェイスブックグループでやろうか。
保護者同士の交流をZOOMでやればいいなぁ。
あらゆるものを駆使し、みんなで子育てをする。
そんな環境も準備できると思う。
時間と場所にはできるだけ縛られてほしくない。
そしたら、きっとたくさんの「お母さん先生」が活躍できるはずだ。
目の前の子どものためにだけエネルギーを注ぐ
先生には全エネルギーを子どもたちに注いでほしい。
学校行事とか会計とか書類の整理とか、そういうことには一切心を傾けず、ただ目の前にいる子どもたちの幸せだけを考えてもらいたいんだ。
幼児から児童生徒、高校生まで幅広い年齢層の子供が通うといい。
小学生の子どもを持つお母さんが保育士資格を持っているとする。
幼児の子どもを持つお母さんが教員資格を持っているとする。
そんなお母さんが先生に加わったら最高だよね、って思う。
自分の子どもといっしょにスクールに来て、仕事として他の子どもと過ごし、我が子といっしょにまた帰ればいい。
「育休」ではなく「育働」ができるね。
僕は「お母さん」に活躍してもらいたいんだ。
「学校現場」にいて気づいた。
やっぱ、お母さんの気持ちに寄り添えるのは「お母さん先生」なんだよね。
でも、圧倒的に少ないよ、お母さんで先生ってのはさ。
子育てしながら働くのは大変だよ、今の学校現場は。
教育は「人」なり
僕は「教育」は「人」だと思っている。
「子どもたち」の力を信じているのと同じぐらい、
「先生たち」の力も信じている。
もしかしたら、
僕は「学校」を作りたいわけではなく、
「先生たち」が働きやすい「場所」を作りたいのかもしれない。
素敵な先生を集めれば、素敵な学校ができあがる。
そして、だれもが素敵な先生になる可能性を秘めている。
僕だって、昔はどうしようもない先生だった。
力づくで指導する、怒鳴ってばかりの先生だった。
いろんな出来事が僕を変えてくれたんだ。
だから、一人としてダメな先生なんていない。
でも、今の学校には素敵な先生を育てる能力がない。
朝から晩まで仕事に追われ、ロクな研修もせず、仕事ができる人間をどんどん潰していく。
ゆとり教育の中で、ゆとりのない先生を生み出し、働き方は変えずに授業数増にシフトチェンジした。
そういう中で、そのポテンシャルを発揮することは難しい。
まして、批判ばかりの世の中。
先生たちはミスのないように、世間に叩かれぬように、最低限度の無難な教育活動をチョイスするようになる。
目の前の子どもではなく、世間を見て、もしくは保護者の顔色を見て、教育活動を進めることになる。
目の前の子どもを見ずして、教育活動など成立しない。
発達に凸凹のある子どもを無理やり枠に収めようとして、バトルを繰り返す先生を見ると、いたたまれなくなる。
だが、彼らが悪いわけではない。
知らないのだ。
もしくは、怖いのだ。
「ちゃんとやらせなければならない」
そんな呪縛に縛られているだけなのだ。
解いてあげたら、もっと輝ける先生がいるはずだ。
僕はまだまだ「既存」の学校も捨てたもんじゃないと思ってる。
だから、「学校を作りたい」と思ってる反面、「それは僕のなすべきことだろうか?」という問いと直面しているわけだ。
批判からは何も生まれない。
子どもだって、先生だって、だれもが初めは1年生。
あたたかく見守るから育つのだ。
「学校を作りたい」という話は、「素敵な先生を増やしたい」と同義なのかもしれない。
だから、こうして僕は毎朝、文章を書き続けている。
魔法の質問
お金を払ってでもやりたいことは何ですか?