「ポイ捨て」する人を見た夜に思ったこと
ある夜の出来事
妻と車に乗っていたときのこと。
目の前を走る車の窓からペットボトルが捨てられた。
昨今、なかなか見ない光景だから、目を疑った。
そしたら、次々に窓からゴミを捨てた。
走りながら、ゴミを捨てていく。
その後ろを僕は運転していた。
まあ、ゴミを避けながら走ったんだな。
それで信号待ちで停まった。
車線変更したから横に並んじゃったんだな。
やめときゃいいのに、妻が覗きこむ。
そしたら、その車、隣には止まらず、ずいぶん後ろで車を停めたの。
ちょっと面倒臭いな…と思った。
運転手が降りてきたら、ヤルしかない。
まあ、それはいいんだけど、とりあえず面倒臭いな、と思った。
が、その車、信号が青になると、サ〜ッと行ってしまったわけ。
しかも、窓を開けて中指を立てながら。
ちょっとウケた。
そのあと、行き先が同じだったので、後ろをついて行ってあげた。
嫌だろうね。
そういうの。
車って面白いんだな。
僕は昔、RX-7に乗っていた。
今は北米NISSANのフロンティア。
全長6m弱のアメ車に乗っている。
そういう車に乗っていると、煽られたりちょっかい出されることはない。
が、妻の可愛い車に乗っていると、ときおりそういう車に出くわす。
可愛い車だけど、乗ってる人間まで可愛いとは限らないんだよね。
まあ、それはいいとして。
僕がそのとき、思ったことを書こうと思う。
根っこを育てる。
「お母さんに愛情をかけてもらえなかったのかな?」
僕はそんなことばかり思っていた。
だから、「中指」ごときに腹など立たなかったんだ。
愛情をかけられた子どもは、「根っこ」が育つ。
「自分は自分でいいんだ!」という人間としての「根っこ」だ。
「根っこ」が育つと、「幹」になる。
幹は太いほどいい。
幹が太い子どもは社会規範を守ろうとする。
自分を取り巻く環境をよりよい状態に保とうとする。
社会規範とは「学校のルール」的なものではない。
モラルと呼んだ方がしっくりくる。
この世界のルールと呼んでもいいかな。
社会が正常に回るための規範意識が育つ。
なぜならば、「根っこ」の育っている人間は、健全に他者と関係性を築くことができる。
他者を傷つけず、決して依存せず、良い関係性を築ける。
いわゆる豊かな人間関係というヤツだ。
そして、その関係性を壊すことがないよう社会規範を守ろうとする。
また、この地球とすら関係性をはっきりと意識しているため、環境も守ろうとする。
簡単にいうと、「根っこ」が育った子は、いいヤツだ!ってことよ。
自分を愛し、他者を愛し、世界を愛する人間なわけさ。
だから、ポイ捨てをした彼が愛に飢えていることを僕は感じてしまったのだ。
彼は寂しい子なのだ。
ポイ捨てをする人を見たら、ヒドいヤツだなんて思わないでほしい。
愛情をかけられていない悲しい人なのだよ。
中指を立てて走り抜けた行動は、きっと彼の「こっち見て行動」だったのだろう。
たとえそれが屈折していたとしても、自分を注目してほしかったのだ。
もしかしたら、彼の後ろをついて行ってあげたことを、彼はうれしく思っていたかもしれない。
そう思うと、僕は「愛の人」だからね、ちゃんと車を降りて、「ゴミを捨てちゃいけないよ」って言ってほしかったのかもなぁ。
ごめん、気づいてあげられなくて。
辛いよね、悲しいよね。
ゴミを捨てなきゃ、注目を浴びられないんだもん。
あぁ、それを思えば胸が痛い
怒りよりも悲しみが沸いてきた。
そんな夜でした。