子どもの力を伸ばしたければ信じることですよ。
「この本のどんなところが好き?」
そう僕が尋ねると、女の子はじっと黙り込んだ。
僕はその表情を確認すると、微笑みながら時が過ぎるのを待った。
これは、子どもたちがじっくりと答えを考えている合図なのだ。
そんなときは、「しつもん」を重ねてはいけない。
ただ待つ。
これでいい。
だが、その沈黙を破ったのはお母さんだった。
「ほら、◯◯ちゃん、前はこう言っていたでしょ?」
「ほら、◯◯ちゃん、先生が質問しているでしょ?」
終始、そんな声をかけていた。
お母さんに悪意はない。
彼女を動かしているのは不安感である。
大人が子どもを待てないのは不安感なのだ。
信じきれていないから待てないのである。
なぜ、僕が待てるのか。
答えは簡単である。
信じているから待てるのだよ。
子どもを信じる。
こんなに簡単なことが、残念ながら大人にはできない。
だって、大人だって信じられて大人になってきていないのだから。
それは仕方のないことかもしれない。
昔、こんなことがあった。
夏休みの出校日。
生徒が次々と宿題を教卓の上に並べていく。
その中にひときわ異彩を放つ読書感想文があった。
確かによく書けている。
書いた子は、学級委員の女の子だった。
勉強が得意な方ではなかったし、良い意味でも悪い意味でも目立つ子だった。
だが、驚いたものだ。
本当によく書けている。
僕は彼女を呼び、絶賛した。
そして、あまり成績の芳しくなかった通知表のことを思い出し詫びた。
僕は彼女の才能に気がつけなかった無能な教師なのだ。
そんなとき、僕は素直に自分の非を認める。
本当に素晴らしかった。
なんどもなんども褒めた。
だが、次の瞬間、彼女は大粒の涙を流し詫びたのだ。
僕には意味がわからなかった。
「これ、私のじゃないんです…」
そう言って泣きじゃくった。
聞けば、前年の最優秀賞の読書感想文をネットから拾ってきて書き写したのだそうだ。
そりゃ、うまいはずである。
だが、彼女は良心の呵責に耐えかねたのだろう。
それほどまでに信じられているということは重い。
僕は彼女の実力を信じて疑わなかった。
この作文は彼女が書いたものだと素直に信じた。
それはある意味では裏切られたわけだけれど、不思議と咎める気にはならなかった。
作文なんてものは、そのままの自分を表現すればいいのだ。
それを「少しでも良い評価を」と思わせ、そんな「不正」をさせてしまったとしたならば、それは僕の落ち度なのだ。
この話は示唆に富んでいる。
「信じる」ということは教育の礎である。
子どもを信じられない教師など教師ではない。
そして、信じたからこそ、彼女は正直に話をしてくれたのだ。
不正を正すことが僕らの仕事ではない。
そのことから学び、これからの人生に生かしてくれるならば、いくらでも騙されてあげたいと思う。
手のかかる子ではあったけれど、その後も本当に一生懸命国語の授業に参加していた。
それで良いのだ。
良いきっかけになったならば、それでいいだろう。
教育者なんてものは、一つの「きっかけ」を与える小さな存在でいいのだ。
そうそう、前述の彼女。
僕は一言、こう伝えた。
「僕はあなたは作文を書ける子だと信じている。何も心配はしていない。きっとできるから」
それだけ伝えると、その場を離れた。
信じられているということは重い。
彼女はその後、すごい勢いで作文を書き上げたのだった。
言葉一つで魔法をかけるのがプロの教育者である。