生きてる価値のない人間
ある朝のことでした。
布団の中で、僕は突然震えが止まらなくなりました。自分の両手で身体を抱きしめながら、何度も何度も抱きしめて、僕は僕に「ごめんなさい」と伝えました。
僕には子どものころの記憶が断片的にしかありません。
幼かったころの両親は、喧嘩の絶えない夫婦でした。貧しく、お金のことで喧嘩をする。そんなことがたびたびあったようです。
夫婦げんかというものは、子どもにとって悲しく心細い経験です。
この世界に生まれ落ちたとき、僕らの世界のすべては「お母さん」です。人間は等しく「お母さん」から生まれます。
母という存在なくして、僕らは存在することすらできないのです。
ですから、世界のすべてである母が悲しい思いをするということは、子どもにとって耐え難い苦痛です。
だからでしょうか。僕はその、夫婦げんかの記憶がすっぽり抜け落ちているのです。
記憶に残っているのは、こんなシーン。
涙を見せまいとする母。その背中を不安そうに見つめる幼き僕。
母の自転車の後部シートに乗せられる。特に会話はなし。
幼き僕はすべてを察したかのように押し黙って、軋む自転車に揺られる。お尻が痛いけれど、声にするわけにもいかず。
胸に残るのは不安と悲しみ。
また、別のシーンが頭をよぎります。
父の実家に預けられる僕。愛されている感のしない祖父母の対応。幼いながらに察するのは、歓迎されていない気持ち。
僕の顔を見るなり、祖父は
「お前はどこの子だ?」
と尋ねる。それで、父の名前を告げると、
「おお、あいつの子か」
と言われる。
この一連のやりとりを、顔をあわせるたびにする。どれほど傷つけられたことでしょう。
僕はこの祖父母の家がどうも好きにはなれませんでした。お正月だったでしょうか。もうあれは中学生ぐらいのときだったでしょうか。親戚一同の集まりで、兄弟の話になりました。
話の瑣末は忘れてしまいましたが、「兄弟に障害児がいてかわいそうだ」というような話になったのです。僕はあまりの言い草だな、と思いました。それで、僕の正義感に火がついてしまったのでしょう。
「障害児がいるからかわいそうなんてことはない」
そう伝えた僕に、親戚の叔父が、
「兄弟のいないお前にはわからん」
と切って捨てました。
僕は殺意を覚えるほど悔しく、地団駄踏んで部屋を飛び出しました。飛び出さねば、飛びかかっていたかもしれません。
僕はその言葉に、母を傷つけられた感じがしたのです。
兄弟がいないのは、僕のせいではありません。また、父と母が兄弟を作ろうとしたのかも、一人で十分と思ったのかもわかりません。
ただ、僕は
「兄弟のいないお前にはわからん」
という言葉にひどく傷つけられたことを覚えています。
とにかくここへ行くと、母をないがしろにされる。そんな意識が僕を支配していました。
次に覚えている記憶。
母方の祖母に預けられ、ずっとテレビアニメを見ながら過ごす。共働きだった母の迎えを静かに待つ。
保育園にも祖母が迎えに来ました。途方に暮れそうなほど長い時間、僕は祖母の家で暮らし、押し黙ってテレビを眺めていました。別に楽しいわけではありません。それしかやることがなかったのです。
身体が元気な間は、よく働く祖母でした。幼い僕の手を引き、オープン前の居酒屋へ。ここは親戚の叔母が経営する居酒屋でした。汗とアルコールとタバコの匂いが染みついた店内。そこで清掃作業をする祖母の姿。
僕はおとなしくソファーに腰掛ける。
「いい子でいなければいけない」
それが、僕の幼いころのルールでした。
雨の日も風の日も、自転車で僕の送り迎えをする母の姿。それはとても大変なことだったと思います。
幼き僕は、わがままを言ってはいけない、我慢しなければいけない、そう信じて生きてきました。
あれから四十年。ココロもカラダも大人になった僕に、あのころの幼き僕が突然乗り移ったのです。
震えの止まらぬ身体をぎゅっと両手で抱きしめながら、僕の心に浮かんだメッセージ。それは、
「生まれてきて、ごめんなさい」
でした。
僕が生まれてこなかったら、母は母にならなかった。僕が生まれてこなけば、母はこんなに苦しい人生を生きることになったのではないか。
幼き僕は、幾度も傷つき、人としての根っこを伸ばしてきました。
たくさんの傷を心に抱き、そして四十年間その痛みを握りしめたまま生きてきたことを知りました。
「生きてる価値がない」
自分で自分の生きる価値を認められないまま生きてきたことにようやく気づいた朝でした。
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