行間が読み取れない人
昨日、こんな動画をTikTokにアップしました。
https://www.tiktok.com/@kure9090/video/6878177987615788290
その際、「この動画は質問に答えていない」というコメントをいただきました。
そこからフォロワーさん同士で、「答えている」or「答えていない」という、正直言って「どうでもいい論戦」が繰り広げられました。
僕としては答えているんですね。
ただし、直接的に答えを言ってるわけじゃないんです。
答えを表現しているんです。
でも、ちゃんと読み取れない人にはわからない。
フォロワーさんの多くは、ちゃんと読み取ってコメント欄に僕が言わんとしていることを言葉にしてくれてるんです。
それぞれの言葉で。
それが大事なんです。
でね、僕が面白いなーと思ったのは、一人の高校生のコメントでした。
吉野弘さんの「I was born」という詩を現代文の授業で習っているのだけど、読んだことはありますか?というコメントをいただいたの。
それでGoogleで調べたらすぐに出てきてね。
読んでみたのだけど、難解な詩だったの。
吉野弘さんはこの詩にどんなメッセージを込めたのか。
じっくり読み取ってた。
そのとき、ふと思ったの。
詩だけでなく、映画でも、漫画でも同じ。
そこには作者の伝えたいメッセージが込められている。
それを視聴者や読者はそれぞれの解釈で読み解く。
文章であれば行間を読み、映画であれば情景描写や役者の表情の一つひとつから、それらを読み解く。
それを伝え合うことも楽しい。
(そうか…)と思った。
僕の短尺動画も同じなのだ。
僕はクリエイターであり、表現者である。
そこには伝えたいメッセージが込められている。
でも、それを読み取れない人は、これは答えになっていないと一生懸命主張してくる。
「吉野弘さん、あなたはI was bornとタイトルをつけたのに、何が言いたいのかわからないじゃないか!」と一生懸命主張するのは、「僕はバカです」と宣言しているぐらい、本当は愚かしいことのように思えた。
映画監督がいちいち映画に解説を加えたり、ミュージシャンが「この曲はこんな曲で、この詩にはこんな想いが込められていて…」とか解釈を加えられると、途端に面白みに欠ける。
僕はこう読んだ。
私はこう読んだ。
そんな議論があってこそ、面白いと思う。
「この動画は質問に答えていない」と必死に主張する人の言葉を読んで、ふと思い出したことがある。
感想を述べるときとき、「誤字脱字が多かったです」「読みにくかったです」という中身ではないところが気になるタイプの子がいた。
賢いのだけど、他者の心を理解できず、よく人とぶつかった。
そんな子がいたなぁ…と思い出した。
まー、それにしても、そこまで考えて僕に「I was born」の詩を読んだことあるか?と尋ねたとしたら、この高校生はなかなかのキレ者だな、と思うとなんだか面白かった。