良き母、良き妻を演じることは、自分らしくない生き方なのだろうか?
私たちはいつも、何かを演じて生きている。
子どもたちの前では「良き父」「良き母」を。
配偶者の前では「良き夫」「良き妻」を。
職場に行けば、教師として「良き教師」を演じてきた。
誰しも「良き上司」「良き部下」を演じるだろう。
子ども時代を振り返れば、僕らは誰しも「良き子ども」を演じてきたし、「良き生徒」を演じてきた。
そう。
僕らはこの社会の中でいろんな役割を演じている。
そして、場所が変われば、その役割もまた変わる。
果たして、これはおかしなことなのだろうか。
自分らしく演じることができているか
いろんな場面で、僕らはその役割を与えられ、一生懸命その役割を演じている。
それ自体を問題だとは思わない。
しかし、だ。
自分らしく、演じているか。
これが問題なのだ。
最近、「自分らしさ」を勘違いしている人をよく見かける。
例えば、の話をしよう。
「私は自分らしく生きたい」と言って、若い女を捕まえて妻子を置いて家を出た夫や、若い男を見つけて夫と子どもを残して家を出た妻がいたとする。
これは、「自分らしい」だと言えるか。
また、別の例え話をしよう。
「私は自分らしい教育をしたい」と言って、自分の意に反する児童を殴った教師がいたとしよう。
これは果たして「自分らしい」と呼べるか。
社会の中で生きてる以上、やはり僕らは「良き◯◯」を演じる必要があり、その中で表現技法として「自分らしさ」があるのではないか。
僕だってそうだ。
家庭においては、良き父、良き夫を演じている。
TikTokでは「くれちゃん先生」という役柄を演じ、(株)ミナクル組織研究所では社長という役柄を演じている。
そのどれもが、精一杯「良き◯◯」を演じているわけだ。
ただし、そのどれもが「自分らしく」演じている。
これがポイントだと思う。
誰かの正解を生きることは苦しい
ここで大事なことがある。
誰かが描いた「良き◯◯」を演じているわけではないということだ。
自分が描く理想像を自分らしく演じているに過ぎない。
僕らは、与えられた役柄を自分らしい表現で演じれば良いのではないか。
自分以外の誰かになろうとして、僕らは苦しむ。
また、自分らしさとは?の壁にぶつかって苦しむ。
生きているって、悩みが多い。
「良き父」「良き母」
「良き妻」「良き夫」
「良き教師」「良き社員」「良き上司」「良き部下」
いろんな役割を演じている。
時間と場所が変われば、演じる役割も変わる。
それでいいのだ。
その演じ方が自分らしいか。
これが重要ではないか。
人から評価されるか、は重要ではない。
他者から見て「良き◯◯」でいる必要もない。
自分が考える理想を誠一杯生きたらいいんじゃないか。
僕は今、そんなことを考えている。