これで解決!? 意見が対立したときは「きっかけ」を問え!
「私」というものは、先天的な資質と後天的な資質で構成されている。
生まれ持ったもの。
この先天的な資質が感性である。
いわゆる「ものの見方や感じ方」であり、これを変えることはなかなか難しい。
トマトが嫌いな子は、「なんでトマトが嫌いなの?」と聞かれても、嫌いなものは嫌いなのであり、この「嫌い」の感覚はそう簡単に変えられるものではない。
「いやいや、先生。調理法を変えれば美味しく食べられますよ」
…なんてことを言ってくるおバカさんがいるのだけど、トマトをガンガン調理して味も見た目もトマトではなくした場合、それはもはやトマトではないため、それでもって「ものの見方や感じ方は変えられますよ」的な論をぶつけられると、
「えっ?頭悪いの?」
と思ってしまう。
嫌なものは嫌だし、好きなものは好きなのである。
「なんで?」って聞かれても、説明できないのである。
一方、後天的なものとは何か。
これが「考え方」である。
「考え方」はコロコロ変わる。
去年はこう言っていたけど、今はこう言っている、なんてことはよくある。
本を読んで考え方が変わった、とか。
海外へ行って考え方が変わった、とか。
「考え方」というのは周囲の影響によって、変わり続けるものである。
つまり、「考え方」というのは「経験」から作られていることがわかる。
さて、会議で考え方がぶつかるとき、私たちは議論をする。
互いの正当性を主張しあい、ときに傷つけ合う。
議論はいつしか、深めることが目的ではなく、相手を打ち負かすことが目的となる。
感情的なものをぶつけ合い、堂々巡りを繰り返す。
「正しさ」と「正しさ」の戦争が起こるのである。
そんなときは、この「考え方」が「経験」から生まれていることに立ち返りたい。
意見がぶつかったとき、どちらの意見が正しいかを競い合うと「正しさ」と「正しさ」の戦争が起こる。
だから、経験を尋ねるのである。
なぜその考えに至ったのか。
どんなきっかけで、その考えが生まれたのかを問うのである。
宗教同士の戦争なんてものは、まさに好例である。
キリスト教が正しいのか、イスラム教が正しいのか。
そこを議論すれば平行線となり、最後はリアルな戦争へと発展する。
そんなとき、「どうしてキリスト教を信じるようになったの?」「どうしてイスラム教を信じるようになったの?」を問えば、両者の声はだいたい似たようなものに行き着く気がする。
「うちは親がキリスト教でね」
「あー、そうなんだ、うちは親戚一同、イスラム教なんだよ」
「そうそう、うちも親戚はみんなキリスト教でさー」
みたいな感じになれば良い。
そう都合よくいかないのだろうけどね。
職場で意見がぶつかったときも、どちらが正しいかを議論し合うと戦争が起きる。
その考えに至ったきっかけは何か。
どんな経緯でそう考えるようになったのか。
経験を問えば、互いの立場を尊重し合えるのである。
「正しさ」は争いの種になりやすいので気をつけたい。