リーダーがあんまり良いことを言うと、ハードルが上がりまっせ!
どれだけ心に響く良い話をしても、それに行動が伴っていなければ、人の心は離れていく。
そんな話をしたいと思う。
心に響く話は、案外誰でもできるものだ。
それを聞いて、「この人は素晴らしい人だ」と信じたとする。
ところが、言葉と行動が一致する人は少ない。
そして、言葉と行動が一致しないとき、僕らはその人の行動にこそ、その人の「本当の姿」を見るのである。
どれだけ良いことを言っていても、それに伴った行動をしなければ、「あの言葉は嘘だったのか」と思えてしまうのだ。
そして、そこに現れた差が大きいほど、人は落胆し心が離れていく。
道徳的な話をしていた人が、不道徳な行いをしていれば、私たちはその姿に幻滅するのである。
「美しい自然を守ろう!」と叫んでいた人が、ポイ捨てをしている姿を見たら、恐ろしく幻滅するだろう。
一方、日頃から「ルールなんて関係ないよ!」とか言っている人が、不道徳な行いをした場合、まあ、それは良いことではないのだけど、幻滅したりはしない。
「そのまんまですね!」という話なのである。
不道徳な人が不道徳なことをしただけ。
そこに落差はない。
むしろ、不道徳な人がちょっと良いことをしている姿なんかを見ちゃうと、ちょっと感動したりもする。
不良少年が階段でおばあちゃんの荷物を運んであげた的な展開は、ちょっとだけ感動する。
だから、良いことを言う人、書く人は注意しなければならない。
その行動の一挙手一頭足まで見られる対象となるのである。
学校の先生なんて職業は、その典型である。
子どもの遅刻や忘れ物をひどく叱る先生がいた。
「そんなことでは社会に出たとき困る!」と怒るのである。
ところがそういうことを感情的に叱る人ほど、実はいい加減だったりする。
強烈なブーメランである。
ある日、その先生が遅刻してきた。
ついでに忘れ物もした。
生徒たちは非難轟々である。
一斉にツッコミを入れた。
その点、僕は遅刻する子や忘れ物をする子に「まー、仕方ないさ。遅刻することもあるし、忘れ物をすることもあるよな」という話をしていた。
「俺だって遅刻することや忘れ物をすることもあるかもしれないから、その時は許せよ」なんて、伝えていたわけだ。
ハードルは下げた方が良い。
人間はそうそう品行方正には生きられないものだから。
そのうえで、僕は遅刻もしなきゃ忘れ物もしない先生だったので、そりゃ信頼される。
ハードルなんてものは下げておいた方が良いのである。
あまり良いことを言うと、自分のハードルを上げることになるので気をつけたい。
あと、行動できないなら、無理して良いことは言わないことだ。