うまく行ったら誰かのおかげ!うまく行かなきゃ自分の責任!
先日事務の女性にお願いしていた仕事にちょっとしたミスがあった。
もしかしたら税理士さんのチェックミスなのかもしれない。
まあ、とりあえず、ちょっとしたことだった。
女性はひどく気にしていたけれど、僕はそれほど気にしていなかった。
僕にとってそれはちょっとしたことだった。
なぜか。
今日はそんな話からスタートしたい。
こういうとき、ミスをしたことを責める人がいる。
でも、ちょっとだけ立ち止まりたい。
その仕事をお願いしたのは誰か。
そう、僕である。
「仕事をお願いする」という選択をしたのが僕である以上、その責任を取るのは僕である。
以前、投資でお金を失ったことがある。
多くの投資家が出資先を責めたのだけど、僕はその人を責める気にはなれなかった。
なぜなら、その選択をしたのは僕だからである。
僕が選択をした結果がそれならば、その責任を負うのは僕なのである。
授業中、子どもたちに指示を出す。
そんなとき、子どもたちがうまく動けないときってある。
学校行事なんかもそうだ。
うまく動かないなーと思うこと、ある。
そんなとき、叱る先生がいる。
「何をやってるんだ!」
「言ったじゃないか!」
「ダメじゃないか!」
ヒステリックに叱る。
いやいや、待ってほしい。
子どもたちがうまく動かないならば、その指示をしたあなたに責任があるのだ。
うまく行かないとき、僕は「自分の選択」に問題があったのだ、と考え続けてきた。
これは何も自虐的に自分を責めていたわけではない。
その態度を持つことが、次に自分が何かを選択するときの改善につながるのである。
誰かのせいにしていれば、改善はスタートしない。
自分の責任だと感じることが次への一歩につながるわけだ。
だが、その態度でいると、逆に言えばうまく行ったときは、自分の選択のおかげでその結果を生んだと考えてしまう。
こういう考え方は傲慢さを生む。
だから、うまく行ったときは、「その人のおかげ」と感謝をする。
うまく行かなければ、「自分の責任」と捉えて、次への糧とする。
そういう態度で日々を過ごせば、少しずつ人生はひらけてくる。
児童生徒に何かをお願いしたならば、その責任は先生にある。
ミスのないように仕組みを作っておくのもいい。
大人だってミスはある。
そんなときも寛容でありたい。
誰かに優しくできる人間だけが優しくされる。
誰だって自分には甘いものだ。
自分に厳しく、他者には寛容に。
そんな人間でありたいものだ。