なぜ子どもが落ち着いている学校の職員室はバラバラなのか
これはちょっと不思議なことだ。
「荒れた学校」と「落ち着いた学校」。
どちらの学校を赴任したいか?と問われたら、僕は迷わず「荒れた学校」を選ぶ。
なぜか。
「荒れた学校」の方が職員室に一体感があるからだ。
不思議だよ、ホント。
学校は落ち着いていた方がいいと考えるのが普通だ。
それはそうだよね。
でも、学校が落ち着くと、なぜだか職員室がバラバラになっていくのを感じる。
「あの先生がどうのこうの」
「今度の校長はあーだこーだ」
そんな話が増えていく。
荒れている頃はそんなことをやっている暇はなく、みんなが一枚岩となって動くのに、落ち着いてくると、途端にバラバラになる。
あれは本当に不思議だ。
学校が荒れているとき、「その態度で子どもと接したら、やり返されますよ」と伝えたことがある。
案の定、子どもがキレて暴れたりして大変だったわけで、そうなるとその手の先生はだんだんおとなしくなる。
ところが、時を経てだんだん立て直ってきて、子どもが落ち着いてくると途端に偉そうになったりもする。
「成長しねーな」と思ってみたり。
そんなこともあるかもしれない。
荒れてるときは、そういうことに長けた先生たちってのがいて、その人たちを中心に回していくことになる。
やるしかないわけだから、一枚岩になるしかない。
教員同士が文句を言い合っている場合じゃないわけだ。
ところが落ち着いてくると、それぞれが主張し始める。
それはそれで良いことなんだけど、今度は文句の言い合いに発展していく。
それぞれが勝手なことをし始める。
勝手なことをしていても、学校が落ち着いているときは問題にならない。
が、しかし、だ。
数年すると、徐々に学校が荒れ始める。
地域の特性というのがあって、荒れやすい学校というのは、その地域自体が昔から荒れやすい風土がある。
荒れやすい風土はあるけれど、立て直して荒れて、また立て直して荒れてを繰り返している。
本当に面白い。
ちゃんとサイクルがあって、荒れては落ち着き、荒れては落ち着くのだ。
荒れているときは、一枚岩になりやすい。
この状況をなんとかしたい、というヴィジョンでみんなが一体になれる。
ところが落ち着いてくると、ヴィジョンがバラバラになりやすい。
「僕らは何を目指しているのか?」が曖昧になるから、それぞれが好きなことをやる。
組織というのは、目的をもった有機体である。
ヴィジョンがなければ手足が勝手に動き出す。
脳が「食事を取ろう」とヴィジョンを掲げるから、右足と左足は動きを止めて、お尻は椅子の上に置かれ、右手は箸を持ち、左手はお茶碗を持ち、口はモグモグしてくれる。
脳が「ご自由にどうぞ」と言い出せば、右足は走り出し、左足はジャンプして、お尻は屁をこき、右手は箸を投げ、左手は人を叩き、口は唾を吐く。
リーダーがヴィジョンを描く。
それに従って、それぞれがその頭で考えて行動を選択する。
これが本来の組織だけれど、落ち着いてくるとこのヴィジョンが曖昧になる。
子どもが落ち着いた学校で出会う校長先生で、僕はリーダーシップを感じたことがある校長先生は一人しかいない。
その先生は、「もっと学校をよくしたい」という明確なヴィジョンがあった。
学校が落ち着いてくると、そういうことに反発する教師もいたのだけれど。
持ち前のバイタリティーで、そんな人間関係の苦難を乗り越えていった。
そういうとき、本物のリーダーシップを見た気がしたんだよね。