選択する力を身につけよう 〜与えられた「情報」から、僕らは行動を選んでいる〜
「人に言われて何かをする」ということが誰にでもあると思う。
上司に言われて渋々やる仕事とか、友達に誘われてどうしても断れなかったイベントとか。
この「行動」について今日は考えたい。
僕は「行動」は「自分で選んでいる」と解釈している。
たとえ上司に言われて渋々やる仕事だとしても、である。
「やらなきゃクビになるじゃないか!」と言う人もいるだろうけれど、世の中には「やらない」と言う選択をする人もいる。
100人いれば100人やるわけではない。
断る人もいるわけで、結局最終的に「やる」を選んだのは自分である。
「人に言われて何かをする」というとき、人間は「言われたからやった」と誤解しがちだけど正確にはそうではない。
人から与えられた「情報」によって、自分は「やる」を選択したに過ぎない。
もちろん選択の理由はさまざまだ。
「上司に怒られる」という理由もあれば、「上司がかわいそうだから」とか「やらないと誰かに皺寄せが行く」とか、理由はさまざまだろう。
「情報」をキャッチしたあと、僕らはそれを自分のフィルターにかけて吟味する。
やるべきか、やらないべきか。
やりたいか、やりたくないか。
損か、得か。
面白いか、面白くないか。
そして、「やる」「やらない」「それ以外」という選択肢の中から、自分でなんらかの「答え」を出すわけだ。
だから、その「選択」の「結果」に対する責任は「自分自身」にある。
ところが多くの人は、その責任を自分では引き受けない。
誰かのせいにして生きている。
今の自分の境遇がこうなのは、社会のせいだ。教育のせいだ。親のせいだ。
誰かのせいにして生きているうちは、人生は受動的なままだ。
変えられるのは自分だけである。
僕らが選べるのは「自分の行動」だけなのだ。
その責任をきちんと引き受けるからこそ、「自分の行動」を選ぶことができる。
「結果」に対する責任が自分にあるのだから、行動を選択するのは当然である。
ところが、この責任を背負わないものは、いつも誰かのせいにして生きている。
友達に誘われたイベントが恐ろしくつまらなかったとして、それを友達のせいにする人がいる。
それは違う。
友達は「いっしょに行かない?」と誘ったのであるが、これは「情報」である。
「すごく面白いイベントらしいよ!」と誘ってきても、それは「主観」に彩られた「情報」なのだ。
その「情報」をもとに、あなたは「行く」を選択した。
その選択はもしかしたら、「イベントが楽しそうだったから」ではなく「友達に嫌われたくなかったから」かもしれない。
それでも、選択したのは「あなた」なのだ。
そして、その結果そのイベントがすごくつまらなかったとしても、そのイベントが悪いわけではないし、その友達が悪いわけでもない。
あなたが選択した結果、そのイベントが「つまらない」ということを知っただけなのだ。
その責任は誰でもない、自分自身なのである。
そういう態度でいると、自分のデータベースの中に情報が蓄積されていく。
今度は後悔しない選択ができるようになる。
誰かのせいにして生きている人は、このデータベースがいつまでも蓄積されていかない。
データベースに「知識」「経験」「教養」が蓄積されることで、より精度の高い「行動」を選択することができるようになる。