「自己決定感」とは、自分の選択を誰のせいにもしない感覚
自己決定感という言葉があります。
簡単に言えば、「自分の選択を自分で決められているか」っていう感覚です。
まあ、「自分の選択」なんてものは、「自分の選択」なわけで、全部「自分の選択」何ですけどね。
例えば、あなたが友人とレストランに行ったとします。
メニューを見たら、カレーライスが美味しそうでした。
カレーライスが食べたかったんです。
で、カレーライスを頼もうとしたら、友人が言うのです。
「ここのオススメはオムライスだよ」って。
あなたは迷います。
さらに、友人は続けます。
「絶対、オムライスが良いって!」って。
それで店員がやってくる。
「お客様、ご注文を」の声に、あなたは少しだけ逡巡して「オムライスをください」と頼む。
さて、これは「自分の選択」でしょうか。
それとも、友人の言葉に流されたのでしょうか。
実は、そんなことはどちらでも良いのです。
問題はあなた自身がこの選択に責任を持てるか、だけ。
運ばれてきたオムライスが恐ろしくまずいんです。
吐きそうなほどまずいんです。
だとしても、あなたはその責任を自分のものとできるか。
ポイントはここなんですね。
オムライスを頼んだのは私。
だから、まずくても、それは私の選択。
そう思える人は、「自己決定感の強い人」と言えます。
反対に、友人に対して「なんてマズいものを勧めたの?」と思ったあなたは、「自己決定感の弱い人」と言えるかもしれません。
まー、これは極端な例です。
つまり、「自己決定感」というのは、「自分で決めさせてもらえる感覚」ではないんです。
すべての選択を、「ワタクシゴト」として捉え、責任を持って選択している感覚と呼べるかもしれません。
学校の先生のツイッターをよく眺めています。
「残業が多い」だの、「部活動が嫌だ」だの、いろんなネガティブな声が聞こえてきます。
そのたび思うんです。
そういう職業じゃん?
知らなかったの?
知らずになったの?って。
選べるんです。
職業は選べるんです。
授業だけしていたいなら塾の先生になれば良いじゃん!
学校の先生ってそういう職業だよ、って思うんです。
そして、それを選んだのは「あなた」です。
で、思うんです。
文句を言うのは良いんです。
サービス残業が多いのはおかしい!
確かにそうです。
じゃあ、何を選択しますか?
ツイッターで愚痴ってるだけですか?
それで何か変わるんですか?
僕の職場の上司は政界に飛び出し、議員さんになりました。
組合活動をがんばっている方もいます。
出世して、学校を動かす立場になって、教育改革に乗り出している方もいます。
それもまた選択です。
つぶやいてるだけで何が変わるのよ?と思います。
で、結局この手の人たちは「自己決定感」の低い人生を生きています。
「やらされ感」の強い人生ですね。
他責型の生き方になります。
自分の人生がこんななのは、社会が悪いんだ。
上司が悪いんだ。
保護者が悪いんだ。
児童生徒が悪いんだ、となります。
今、この瞬間を選んでいるのはあなたです。
今、この瞬間は過去のあなたの選択の結果です。
全部自分で選んでいるのです。
その感覚の強い人は、成功も失敗も「ワタクシゴト」として受け止めます。
誰のせいにもしません。
だから、他者のアドバイスを生かすことができます。
「自己決定感の低い人」は他者のアドバイスを生かせません。
「無理難題」を押し付けられても、「できない理由」は探しません。
どうしたらできるか、を一生懸命探します。
「自己決定感の低い人」はあきらめが早いです。
「できない理由」ばかり口にします。
うまくいかないのは、誰かのせいだからです。
そう考えると、「自己決定感」というものの正体は、「すべての責任を引き受ける能力」とも言えるかもしれません。